私説ニュータイプ論

※この記事は、2003年末に書かれたものです



 先日、小生はコミック『クロスボーンガンダム』を読み終えた。鮮烈な感動があった。
 コミック作品であるため知名度が低く、また絵柄も兵器や戦争に説得力を持たせるには少々厳しいヤワな絵柄であるため、あまり読まれていない作品だと思う。が、基本的なストーリーの骨格を作ったのは富野監督自身であり、また話の中身を見てみると、この作品が富野由悠季という人物の思索上のひとつの到達点になっていることがわかると思う。
 本稿では、特に目新しいことを言おうとする意図を持たず、一つの思想としての「ニュータイプ」について概観し、富野由悠季という人の出した答えがどんな意味を持つのかについて述べる。「ガンダム」という作品と長く付き合っていく上で、こうした部分について考えておく事も有益であると信ずるからである。



   1・「めぐりあい」、あるいは発端

 さて――ニュータイプなる概念。これはなかなかクセモノである。
 アニメ史におけるエポックメイキングとして認めない人はいないだろう作品、『機動戦士ガンダム』。そのストーリー後半の重要なキーワードとしてこの言葉は登場する。
 もはや再説の必要もなかろうとは思うが、念のためその基本的な定義を記しておくと――人類が広大で過酷な宇宙空間に住むようになった事で、人間の潜在能力が引き出されて認識力などが向上、更に戦争というサバイバル状況によって追い込まれた人間が急激にそうした潜在能力を覚醒させる、そうした人をニュータイプと称するというものだ。具体的な効用として、認識力向上の結果相手の思惑が察せられるようになったり、カンが鋭くなったりする。また、ニュータイプの脳波を特殊な装置(サイコ・コミュニケーター、サイコミュ)によって増幅することで、複数の有線/無線攻撃端末を自在に操っての遠隔攻撃が可能となる。
 総じて、作中においてニュータイプは「誤解なくわかりあえる人々」であるとされ、やがて人類全てがニュータイプに移行することで戦争などのあらゆる争いごとをなくす事ができる存在として語られることになる。「人の革新」などと呼ばれるゆえんである。
 初代ガンダムにおいては、地球連邦軍の兵器「ガンダム」のパイロットになってしまった少年アムロ・レイが、サバイバル状況に投げ込まれた事でニュータイプに覚醒。敵のニュータイプ少女ララァ・スンとの交流と、ララァの死などを経て、最後は自らのニュータイプとしての能力で自分の仲間たちに呼びかけ、最後の戦場であるア・バオア・クーから全員無事に脱出するという形で物語が幕を閉じ、ひとつのハッピーエンドとして「ニュータイプ」という存在への希望を残して終わる。
 もしも、『ガンダム』が単発の作品で終わっていれば、これはこのままで良かった。否、『ガンダム』が数あるアニメ作品の一つとして埋もれてしまい、せいぜいが「知る人ぞ知る」という程度の作品であれば、まとまりのある気分の良いラストシーンですね、というだけで済んだだろう。
 問題は、そうならなかった事に起因する。
 再放送の過程で初代『ガンダム』に人気が出てしまい、「ニュータイプ」という概念を多くの人が知るところとなった。そのものズバリ『ニュータイプ』というアニメ雑誌ができ、しまいには「自分はニュータイプだ」と思い込んでしまう間抜けまで出てくる始末で、富野監督としても「単なる作品の飾り」とは言い切れなくなってきた。
 一般にアニメーションの監督をしている人たちは、他の創作物の作り手に比べて、自作が視聴者、ひいては世間に与える影響に敏感な面がある。価値観の固まっていない子供たちが見るものを作っているという自覚がそうさせるのだろうが、特に富野という人は、自作が作り出した概念によって「カン違い」する輩が出ることに、我慢ならない人だったのだろう。
 そして、彼の元に続編制作の話が舞い込むのである。



   2・「戦士ふたたび」、あるいはニュータイプの挫折のこと


 初代ガンダムの続編を作るにあたり、作者である富野氏は「ニュータイプ」という概念を能天気な希望の言葉のままにしておく気はなかったらしい。そして、『Zガンダム』『ガンダムZZ』という二つの作品が作られる。
 ここで徹底的に検証されているのは、「ニュータイプという概念は本当に有効なのか」という、根本的な問題である。ここには、前作である初代『ガンダム』への深い疑念があったのだろう。前作において、ニュータイプである二人の男――アムロ・レイシャア・アズナブル――との間で、ニュータイプであるララァ・スンは悲劇的な死を迎えた。もし本当にニュータイプが人の革新ならば、なぜララァは死なねばならなかったのだろうか。「誤解なくわかりあえる」はずなのに?
 そして、この疑問を突き詰めた結果、『Z』『ZZ』という二つの作品は悲惨な展開に終始する。戦いの中で、ニュータイプであったりニュータイプの素養があったりする人々が、次々に殺し殺されて絶望の色を見せるのだ。カミーユ・ビダンの精神崩壊は、その最大の象徴である。
ガンダムZZ』においても、これは変わらない。否、むしろ「ニュータイプ」という概念の検証という視点でこの作品を見たとき、そこには『Zガンダム』以上のテーマの掘り下げが見られると言っていい。
 ここでは、ハマーン・カーンエルピー・プルを例にあげる。
 ハマーンという女性は、『Z』の終わりの方で主人公カミーユ・ビダンニュータイプの交感をした。初代ガンダムでの、アムロララァの交感を思わせるこのシーンにおいて、ハマーンカミーユは確かに互いにニュータイプとして「わかり合える」身であったことを示した。にも関わらず、ハマーンカミーユを拒絶する。
 これは『ZZ』においても同じで、ハマーンは自分の中の寂しさからニュータイプである敵軍パイロット、ジュドー・アーシタを求める。ジュドーもまたハマーンのそうした部分を知らないわけではない。互いにニュータイプでありながら、二人は決裂する。
 ジュドーとプルにおいても同じである。プルはジュドーを好いているし、ジュドーとてプルが嫌いなわけでもない。にも関わらず、「リィナ・アーシタ」という人物を挟んで二人はとうとうわかりあうことなく、破綻に終わった。
 いや、何もこの二人に限ったことではないのだ。「誤解なくわかりあえる」と言いながら、この両作品の中でまともにわかりあえていたニュータイプなど数えるほどもいない。
 これが、結論だったのである。相手のことを誤解なく認識したところで、自分の置かれた状況や、自分の中のコンプレックス、トラウマ、感情などに阻まれて結局はうまくいかない。ハマーンで言うなら、アクシズの宰相という立場とプライド、シャアという男との決裂、そしてアステロイドベルトで孤独な数年を過ごしたという経験が彼女の心をかたくなにした。たとえニュータイプといえども、そうした精神的な重荷まで簡単に取り除くことはできないのである。
 そしてハマーンは死に、プルも死んだ。どちらも真に満たされることなく。



   3・「逆襲のシャア」、あるいは粛清論

Zガンダム』の中で、シャア・アズナブルクワトロ・バジーナと名を変え、スペースノイド弾圧に対する抵抗運動「エゥーゴ」に参加していた。彼は作中で「ニュータイプへの覚醒で人類は変わる。その時を待つ」と言う。しかし彼もまた挫折し、「地球に居続ける人々を粛清」するネオジオン総統として帰って来ることになる。これが、劇場公開作品『逆襲のシャア』である。初代『ガンダム』から始まった、アムロとシャアの物語として見ても、また富野由悠季氏のニュータイプという概念の歴史として見ても、ひとつのクライマックスを迎える重要な作品だ。
 ここで彼は、地球に隕石を落とすことで人の住めない場所にし、人類全体をなかば強制的にニュータイプ化しようと画策する。全ての人類が宇宙に住まざるをえなくなれば、アースノイドスペースノイドという境界が消えるし、やがて人類全体をニュータイプにすることも可能だろうというわけだ。
 これは、正にギリギリの境界線、エッジなのである。ついにここまで来てしまった、という限界なのだ。
 切通理作氏の評論集『ある朝、セカイは死んでいた』の中に、富野監督へのインタビューがある。切通氏は、当時リアルタイムでガンダムを追いかけていた人々が、作中でいつまでたっても「ニュータイプの若者がオールドタイプの大人を打ち破って」ニュータイプの希望というハッピーエンドにたどり着けない事にイライラしていたという。なぜ、現実認知の物語に終始するのか。だが、富野監督と話をするうちに、彼は気付く。
 オウム真理教の教祖、麻原が自分たちの施設にある空気清浄機を『宇宙戦艦ヤマト』からとって「コスモクリーナー」と呼んでいたこと。そして、地球を救うため選ばれて宇宙を旅するこのアニメの主人公たちに憧れ、「ぼくたちは彼らと同じだね」とコメントしていたこと。
 富野監督はこの話を聞いて、我が意を得たりとばかりに同意する。ガンダムニュータイプになるためのハウツーものにしてはいけなかったのだと。ニュータイプとオールドタイプの戦争を描き、ニュータイプを勝たせてしまった場合、それは現在の人類を否定することになる。それがオウムのような過激さと結びつく……。
 ニュータイプとオールドタイプの戦争。『逆襲のシャア』は、明らかにそうした戦争への萌芽であるだろう。この危険性については、強調しても強調しすぎることはない。
 シャアは、「自分のことしか考えていない」地球にいる人々を粛清し、争いの根を絶つと言う。ニュータイプとは宇宙に住むことで認識力を広げることができた人々であり、彼は地球に固執するオールドタイプを根絶して、全人類をニュータイプにしようと目論んでいるわけである。
 読者諸氏はお気づきだろうか。これは優生思想なのだ。
 かつて一年戦争の時、ジオン公国の総帥ギレン・ザビは、ジオン公国国民こそ「優良種」であり、その自分たちが地球圏を管理運営すべきだとの名目で戦争を始めた。シャアは、ザビ家への復讐という形で、こうしたやり方を否定したはずなのである。
 だが、『逆襲のシャア』で彼がしようとしている事は、優れているニュータイプを残し、オールドタイプを駆逐しようとしている点ではザビ家と同じである。これは矛盾ではないか。
 カミーユ・ビダンハマーン・カーンのように、オールドタイプたちが作り上げた状況の中で悲劇を強要されたニュータイプたちを考えた時、シャアのやり方は当然の帰結というべき部分を持っている。だが、シャアのやり方を進めていけば、それはついにジオン公国のギレン、いや、ナチスドイツのヒトラーへと行き着いてしまうのだ。
 ここに来て、ニュータイプという思想はギリギリの一線にまで追い詰められてしまう。
 シャアは、おそらくこの矛盾に薄々気付いているだろう。だからこそ組織の名前を「ネオジオン」のままにしたのだろうし、「人類の業を背負う」という発言も出て来たのではないか。矛盾と知りながら押し切ろうとするシャア、それに対してこの一線だけは越えてはならないと踏ん張るアムロ、というのがこのストーリーの全てである。
 そして、戦いにはアムロが勝った。富野監督は、かろうじて一線を越えずにすんだのである。

 ともあれ、シャアの試みが失敗に終わったことで、ニュータイプ思想は完全に行き詰った。帰着する場所を失い、ニュータイプという概念は宙に浮く。では、どうするか。



   4・「人と継ぐ者の間に」、あるいは決着点


 劇場公開作品『機動戦士ガンダムF91』は、ニュータイプというテーマの追求としては特に見るべきところがない。むしろ、小生などは主人公シーブックが「ニュータイプって、人の革新だって言うでしょ?」などと言いはじめた時、正直鼻白んだものだ。まだそれを引き摺るのか、ということである。そうでなくとも、富野監督はエンタテインメントを作る身なのであって、例えば角川スニーカー文庫所収の小説版『機動戦士ガンダム』など、ストーリー性そっちのけで自分の考え出した「ニュータイプ」という概念についてあれこれ議論するようなやり方は、やはり独善であろうと言わざるを得ない。
 もっとも、これは割り引いて考えるべきところでもある。『ガンダムF91』は、その後のテレビシリーズでの展開を予定していながら、結果として頓挫した話であったからだ。エンタテインメント的な面白さという部分では、こんな言い訳は通らないだろう。が、富野由悠季という人物の思想として考えるならまた別である。F91のストーリーだけで、彼がどういった方向を目指していたのかを測ることはできない。
 そして実際、メディアを変える形で続編はつくられ、そこで富野監督はこの長年のテーマにひとつの決着をつけた。少なくとも小生はそう考える。

 その決着について、ここでは端的に語ることにしよう。以下、コミック作品『クロスボーンガンダム』の中で一番重要と思われる一節を引用する。もし、本稿をお読みの読者諸氏の中で今後この作品を読もうとしている方、特に作品のネタバレを嫌う方がいらっしゃったら、すみやかにブラウザの「戻る」ボタンを押すべきかもしれない。
 もっとも、これはあくまで私見にすぎないが、物語というものは話のあらすじや中核のメッセージだけを先行して知っていたとしても、それで易々と意味を失うようなヤワなものではない。中核を為すメッセージだけを読めばいいのなら、何もまどろっこしい物語の形式をとる必要はないではないか。小説やコミック、アニメやドラマや映画などの物語をその程度のものと、これをお読みのあなたがもしお思いだとすれば、それはあなたがその程度の深さでしか物語を味わえていないという事を意味する。
 だから、あえて小生は、以下の部分を読者諸氏に読んでいただきたいと申し上げておく。その上で、もしも未読ならば、コミック『クロスボーンガンダム』を読んでいただきたいと。

 さて。以下に引用するのは、主人公トビア・アロナクスが作中ある人物へあてて書いた手紙の内容である。コロニー育ちであるトビアは、地球の重力下での生活という経験がない。その彼が作中、たまたま地球へ下り、そこで地球の人々が12kmもの山道を平気で徒歩で移動することに大きな驚きを得たという前段階がある。以上を踏まえた上で、読者諸氏は、これをどう読まれるだろうか。


「あなたは1日に12kmの山道を歩くことができますか?
 それはぼくたち宇宙育ちからみればとんでもない能力なんです。
 でもそれは"進化"したわけではなく人間がもともと持っている力――
 "環境"にあわせて身につく人間自身の力――
 だからカンが鋭かったり先読みがきいたりするNTの能力も
 単に宇宙という環境に適応しただけで、
 ぼくらはまだ昔と同じ"人間"なのでしょう」

 小生の言いたいことは、すでに概ね了解していただけただろうと思う。
 ここではすでに、ニュータイプは「人の革新」などではない。われわれオールドタイプが当然に持っている能力、長距離を歩けるとか、風向きや雲行きから天気を予測するとか、そうした当たり前の能力と同列にニュータイプの能力が並べられている。そこに優劣はない。
 そう、思想として見た時に、トビアのこの答えは正解である。こういう形で、ニュータイプとオールドタイプの対立関係を解いてやることで、ようやくニュータイプという概念は優生思想の袋小路から抜け出す事ができるのだ。グリプス戦役から第二次ネオジオン抗争にかけて、ほぼすべての争いの原因となっていたイデオロギー上の問題が、トビアの発想によって解体される。
 この脱構築は見事であると言っていい。おそらく富野監督は、上記の言葉を書いた時、これでようやく「ニュータイプ」という概念と決着をつけられる、と思ったのではないか。そんな気さえするのだ。
 そして、このニュータイプ幻想の解体から、さらにトビアの言葉はこう続く。

「ぼくは人がNTにならなければ戦いをやめられないとは思えません」

 ここで、新たな問題提起がなされているのだ。ニュータイプという概念を通さずに、人が戦いをやめることのできる道はあるのか。富野監督の思想と、そしてガンダムは、この作品以降、こうした問題と向き合うことになるのである。
 そして――

   5・「黄金の秋」、そして希望の模索

∀ガンダム』。富野監督が手がけた、現在のところ最新のガンダム作品である。
 この作品において、もはやニュータイプという概念がまったく重要なテーマではなくなっている事は、一通り見れば一目瞭然であろう。この作品のラスト、富野作品にしては珍しく、悲惨な人死にの少ない"大団円"がもたらされることはご存知のことと思う。その大団円は、ニュータイプによってもたらされはしない。作中に、ニュータイプである事を強調されるような人物はほとんどいないと言っていい。
 では、この作品における大団円は何によってもたらされるかと言えば、敵味方双方の、立場の違う人間が互いに入れ替わり、相手の実情を見る事によってなされるというのが大元の骨格なのである。
 しょせんアニメの絵空事、現実がそんな風にうごくはずがないとお思いの方もおられよう。言わば言え。それでも、「ニュータイプ」というような抽象的、かつ超越的なものを介在させずに戦いを終わらせるという視点を、「ガンダム」は手に入れた。これは進歩である。


 この進歩は、ニュータイプという概念を一度徹底的に検証する機会を富野監督が持ったからでもあるのだ。
 そして、現在に至る。

 以上見てきた流れを眺めてみた時、『クロスボーンガンダム』が非常に大きなターニングポイントになっている事はご理解いただけると思う。現在の富野氏の姿勢を規定していると言ってもいいくらいに、この作品の持つ意味は大きい。『逆襲のシャア』『F91』『Vガンダム』と『∀ガンダム』との間のミッシングリンクをつなぐもの。そこにこの作品はあるのだ。
 以上で本稿を終える。是非、『クロスボーンガンダム』という作品を手にとっていただきたい。稚拙な部分もないでもないが、かならず清冽な感動にあえるだろうと思う。