エヴァンゲリオンについて思うことなど
劇場版が新たに製作されるとかで、またエヴァについての話題が多く見られる様子です。
で、mixiの方でもそんなような話をちょろっとしたり、それで更に話題を振られたりしたので、とりあえず私の現在のエヴァへのスタンスを、書いておこうかなという気になりました。
ただし。多分好意的なことをほとんど書かないので、お読みになられる際はご了承の上どうぞ。
端的に言って、私は『新世紀エヴァンゲリオン』が嫌いです。
無論作品としての評価はしています。あれがエポックメイキングであったことも、演出や音楽のレベルが高かったろうことも。
従ってこれは、単に私があれを嫌っている、という話であります。
どこが嫌いかといえば、創作者としてのモラルの面で、彼に共感できないところ。
http://zmock022.blog19.fc2.com/blog-entry-509.html
囚人022さんのところのエントリーですが、ここで引用されている宮崎監督の庵野氏への評に、「庵野の最大の取り柄は、正直に作ることだと思うんだよね。」という一文があります。
確かに彼はすごく正直に作品を作ってはいる。けれど、「正直であればいいんだろ?」という内心が垣間見えて、それが不快に感じられるのです。
例えば、庵野監督は『紅の豚』あたりの宮崎氏の仕事を評して、「パンツを脱いでいない」と言う。続けて、
自分のリアリティなんて自分しかないんですよね。うけなきゃもう裸で踊るしかない。ストリップしかないと思います。
基本的に作家のやっていることって、オナニー・ショウですから。それでしかないと思うんですよ。
と発言したりする。
確かにエヴァという作品において、庵野氏は「正直に」そういう部分をアニメというメディアで描いていた。
性交渉シーンも描いたし、使徒を喰らう初号機という描写で生き物の気色悪さも描いた。劇場版では虐殺シーンも描いた。「子ども向け」アニメでタブーだったろうことを、軒並み描くという事をしている。
エヴァが受けた理由の数パーセントから数十パーセントは、こうした過激な部分が負っているだろう。
それがアニメというメディアの表現の幅を広げたことも認めても良いけれど、やはり私は気に食わないのである。
「本当の事を、正直に描いてさえいれば良いんだろ?」なんて、それ自体ものすごく驕りじゃないかと思うからだ。
本当の事だからこそ、慎重に、気を使って扱わなければならないのだ。
オブラートに包んだ表現はもどかしい時もあるけれど、オブラートを剥がしてしまった時、本当の事はそれが本当であればこそ、人に苦い思いをさせたり傷つけたりする。
それを考慮にいれずに、ただ「パンツおろせば良いんだよ」なんて無神経に思えてしまうのだ。
そりゃあ、作品に魂を込めようと思えば、作家がパンツを下ろす事だってある。けど、恥部をもさらすデリケートな行為だからこそ、パンツにも下ろし方があると私は思うのだ。
宮崎は確かに、そこで思い切れなかったかも知れない。それゆえに、『もののけ姫』は『エヴァ』ほど「本当の事」に触れられなかったかもしれない。
けど、その時に「本当の事」に触れる重要さをより重く受け止めていたのは、宮崎の方だったんじゃないかと思うのです。
創作物というのは、それが小説であろうと映画であろうと、見てもらわなければ存在価値がないものです。
つまり、他人の人生の有限な時間をある程度占拠しなければ、成立しないということ。
否、時間だけではない、受け手の意識、思考、意志すら占拠するものでしょう。
しかも現代にあっては、より広く、より長く受け手の時間と意識を占拠したり(それによって関連商品を買ってもらったり、長く作品にお金を出し続けてくれたり)するように――作り手はそうあらざるをえない。少なくともプロの作品は。
だから。受け手の人生の何百、何千分の一かでも占有するだろう作品に、その受け手の人生を傷つけるような要素が含まれているのは、極力避けたい。
ましてアニメといえば、子どもや若者、まだ心の柔らかい層に向けて主に発信されるメディアです。
宮崎駿も、富野由悠季も、そのことを十分に自覚していたからこそ、作品を送り出す側の「モラル」について考えざるを得なかった。
宮崎駿は言います。
それから、『新世紀エヴァンゲリオン』なんかは典型的にそうだと思うんだけど、自分の知っている人間以外は嫌いだ、いなくてよいという、だから画面に出さないっていう。そういう要素は自分たちの中にも、ものすごくあるんですよ。
時代がもたらしている、状況がもたらしているそういう気分を野放しにして映画を作ると、これは最低なものになるなと思いましたね。むしろ、全然流行らない人々とか、ドンくさいものに立ち入る部分をはっきり持たないと、その上で人間はなにをやってるのかということを問わないと、これはエライことになるなと思ったんです。
富野由悠季は言います。
エヴァが、僕みたいな年代とか、僕みたいな感覚を持つ人間から見た時に、あのキャラクターは生きてるキャラクターではない、と感じます。
ドラマは、生気ある人によって描かれるはずなのに、その根本を無視している。かくも腺病質なキャラクターとメカニックで、ドラマらしいものを描けるというのは、頭の中で考えていることだけを描いていることで、短絡的に言えば、電脳的だと。
セックスにしたって生きているから出きることでしょ?その境界線を分かっていない年代、つまり、ビデオとかインターネット上のオマンコ見てセンズリかいているだけで、生のセックスに興味を持てない、本物の女性を怖がる病理現象があるだけで、さっき行った『死ぬこと』が実感出来ないっていうことが一緒になった感性の人々の実在を見せつけられただけで、そう、あれはカルテに見えるんですね
ついでに、切通理作氏がこうしたアニメ監督たちの発言を引きつつ、以下のように書いているのも引用(『ある朝、セカイは死んでいた』P239)。
かつて押井守は宮崎駿を批判し、宮崎駿は高畑勲を批判していた。その論拠は、基本的にはアニメの虚構性に自覚的であれ、ということだった。同じ批判の刃を彼らは自分にも向けている。彼らアニメーションの監督は、まるで虚構世界を見事に作り上げてしまったことが現実に対して罪であったかのごとく、己れに対して内省し、同業者の仕事を厳しく見つめる。それは私からは珍しい人種に思える。たとえば実写の、ポルノ映画の監督が自分の映画観てホントに痴漢するやつが出てこないかとか、ヤクザ映画の監督が自分の映画観てホントにヤクザになるやつが出てこないかとか、そういうことで悩んでいるという話は聞いたことがないからだ。彼らの多くは、他人に指摘される前から己の表現の現実への影響を憂慮してみせる。それは裏を返せば、彼らに自分の仕事への自負があるからだろう。自分たちは充分ティーンエイジに影響をなしてきた、そして他人を批判する分だけ、自分の作品では落とし前を付ける、と。
こうした発信者としての作り手のモラルが、これはこれで驕りであるのか、繊細すぎるのではないかとか、そういう疑念もないではない。けれど、私は彼らの真摯さ――作品を作る上でのこうした真摯さが好きだったのだ。
mixiの日記へのレスで、私が過去、作品を見るだけに留まらず、作り手の言葉にまで関心を向けたのは四人しかいないと書いた。宮崎駿、京極夏彦、富野由悠季、そして東方の作り手ZUN氏。
彼らはいずれも、「作り手のモラル」についてそれぞれの哲学を持っている。私は、そこに惹かれたのだ。
庵野監督に、私はそうしたモラルを感じない。
たとえば、富野監督が一番過激に「本当の事」を描いてしまったのは、『機動戦士Vガンダム』だろうと思う。
けど、それでも彼は、最後の一線で物語にバランスを取ろうとするのを忘れていなかった。
まるで嘘のように奇麗事だらけの、主人公ウッソだ。
想像してみてほしい。もし『Vガンダム』の主人公が碇シンジのような人物だったら。
あの作品は本当にどうしようもない、見るに耐えない作品になっていたんじゃないかと思う。
そこでバランス感覚を働かせて、少々唐突でも、新しい生命への希望を語り、主人公ウッソに(ガンダムシリーズでは珍しく)平穏なラストを迎えさせたわけだ。
そしてそのバランス感覚で、無理やりにでも希望を確保していたからこそ、富野監督自身が『ブレンパワード』で鬱体験から復帰できたのではないかと思うのである。
長くなってしまったけれど、私が『エヴァンゲリオン』を嫌う理由はこういったことだ。「モラル」を感じない。
それはもっとヒドイ言い方をしてしまえば、「真摯に作られていると感じられない」ということなのだけれど。