『機動戦士ガンダムF91(上)』と、富野作品の「組織」演出



 何故か今ごろ読んでいる小説版F91。
 前々から、富野小説の中でもかなり出来がよいと聞いていたのですが、読んでみればさもありなん、これはかなり面白い。
 特に、クロスボーン・バンガード誕生までの、いわば映画の前史にあたる部分がすごい。小規模な企業のトップに過ぎなかったマイッツァー・ロナが、連邦政府に対抗するための私兵と組織作りをするという、言わば派手な部分のあまりない裏方な部分のはずなんですが、その経緯の語り口がある意味一番面白いという。


 恐らく、民主主義というか、官僚制度に対する嫌悪感をここまで剥き出しにした小説なんて、他にないんじゃないでしょうかね?(笑) まあそこが面白いんですが。


 一読して驚いたのは、富野監督が「宇宙世紀」の世界観の事を、ここまで考えていたのかという事でした。
 人類が、劇中に出てくるようなスペースコロニーに住むようになった場合に、衣食住は、流通は、企業は、社会システムは、政治は、雇用はどうなるか――そういう事を、徹底的にシミュレートして考えられていて、そこが一番の読みどころだったと言ってもいいくらい、とにかく凄かった。徹底してました。
 無論、そのシミュレートがすべて妥当かといえば、多分そんな事もないんだろうけれども。なんだかんだ言って、富野監督、ガンダムの世界観のことこんだけ熱心に取り組んでくれてたんじゃん、っていうのがちょっと嬉しかったり。
 ――なんて書くと、「そんなのは当たり前だ、遊びごとでやってるんじゃないんだ!」とか怒られそうですけど(笑)。


 そしてもう一つ、読んでて面白かったのは、富野監督が「組織」を描く時の巧みさ。
 上巻のけっこう後の方、ようやくシーブックが出てくるんですが、彼が文化祭のビューティーコンテストでトトカルチョ(賭け)をやろうとして、そのために学校内のそういう非公式・非合法な行事を牛耳ってる応援団員たちと交渉する場面が出てきます。
 普段ガンダム作品に出てくる軍などの組織に比べれば、本当に小規模な集団でしかないんですけども。にも関わらず、その応援団を構成する学生たちが、単独ではなく「組織」として動いてるんだなぁっていう事がすごく伝わってきた。

「マージンを値切ったのを根にもってんですか?」
「そういう言い方はないだろう。団長は、経理のことに関心がないから、おれが困るんだよ」
「そういうものなんですか?」
「そりゃそうだ。学校が遠征の費用を全部支給してくれるわけじゃないし、団員の持ち出しだって限度というものがある。パーティー券だって、押し売りできない時代だからな」
「ハハァ……。でも、遠征先で、お酒飲んでいたら、そりゃ、お金はいるでしょ……?」
「悪い噂だ。そんなことはしてないよ。そういうのこそ、自腹だよ。それでも、団費のやりくりは大変なんだ。他校とのコンパなんかあってみろ。出し惜しみして物笑いになってみろよ。学園の恥だぜ?」


 ちなみに、これ以前のシーンで、遠征がどうとかいう話は一切出てきていませんし、本筋にも絡んでいません。言わば、本題に入る前の、団員とシーブックとの雑談なんですが。
 この短い会話の中に、「組織のリーダーと、経理担当との認識の差(と感情的軋轢)」「収入と支出」「応援団という組織について外部がたてている噂の存在」「上部組織である学校側との関係」「応援団内での倫理規定」「他校とのコンパ、というような活動もしていること」「そうした場では、応援団が学園の代表として見られること」など、この応援団という「組織」の内外で働いている様々なベクトルが凝縮されています。
 何気ない会話のようで、「組織」というものを実感をもって把握していないと、こうはいきません。
 ソースを失念してしまったのですが、富野監督が講演会の質問タイムか何かで、学生時代に一種の自治会(政治的な云々ではなく、本当に学生の自治がどうこうというだけの組織だと注釈していたと記憶します)に所属していて、その時に組織の力学みたいなものがある程度分かったのは後々役に立った、的なコメントをしていました。
 確かに、そうした実感があればこそ、軍隊なんかも説得力をもって描けるんだろうなと思います。
 小説家や脚本家など、物語を作るクリエイターの多くが、往々にしてこうした「組織体」に説得力を持たせるのが苦手なのに比べると、富野監督のこうした部分は異彩を放っている気がします。
 非富野ガンダム作品で、軍や軍人が突っ込みどころ満載な挙動をするケースが散見されるのを想起すれば、なおさら。


 ちょっと前に、囚人022さんが岡田斗司夫氏の講演レポートを引用して記事を書いておられました。


ある種のプロ論? 岡田斗司夫の『遺言』第五章 レポート感想
http://zmock022.blog19.fc2.com/blog-entry-1226.html


 孫引きになってしまいますが……。


だから、シリーズ開始前の初期設定の段階で、布石となるキャラクターを置く。例えば富野さんは「ガンダム」において、カイ・シデンハヤト・コバヤシが最後はあそこまで転がっていくとはシリーズ開始前に予想していなかった筈。あたかも将棋を指すかのように登場人物をうまく配置した結果、意外なところで活きてきた。
これが僕達の世代のクリエーターは苦手である。一見無駄と思えるキャラを容易に配置できない。将棋に対するチェス型で、終わりに近づく程どんどん動かせるコマが少なくなっていく。キャラが使い捨てられていく。

 元記事はこちら。
http://blog.livedoor.jp/macgyer/archives/51307767.html


 ここで富野監督の名前が出てくるんですが、この部分、多分富野監督のキャラクター配置の実感と、かなり離れた言い方になっているような気がします。
 少なくとも、富野監督は劇中に登場させるキャラクターを、チェスの駒とは思っていないんじゃないかなと、私はそんな風に思える。また、カイやハヤトを「無駄な駒」とも思っていない筈。


 想像ですが、富野監督流の話の作り方だと、作中に「組織」を登場させた時点で、「この規模の組織なら、こういう役目の人間がいるはず」という形で、必要な人物が先に配置されてしまうんだと思うんですね。最終的に作品がどこに向かうか、という事に関わらず。
 少なくとも、岡田氏の言うような「ストーリーに必要なキャラだけを置く」というやり方はしていないはず。
 言わば、組織のリアリズムが先行しているんじゃないかという事。


 たとえば、初代『機動戦士ガンダム』が「リアルロボット」足りえたのは、そうした組織のリアルを描けたからだ、とも言えるわけですよ。
 劇中には、普通のロボットアニメならまず光が当たらないだろう人々、しかし軍という組織が戦争をするためには必ず存在しなければならない人たちが大勢登場しています。


・索敵オペレーターのオスカ、マーカー等
ホワイトベースのコック長、タムラさん
・シャアの部下、ジーン、デニム、スレンダー等
・シャアが出撃している間、ムサイを仕切るドレン
・占領地の政治的トップとその娘のイセリナ
・補給部隊を率いるマチルダさん
・連邦の機密を探るスパイ、ミハル
・WBの整備を仕切るウッディ大尉
・軍のトップ、レビルやギレン


 ざっと思い返すだけでも、これだけの人物がいます。いる、というだけではなく、彼らに個別に名前が与えられ、キャラクターとして立てられている事は特筆に値します。
 もし、ストーリーに必要な人物だけを登場させるという方針でやるなら、たとえば索敵オペレーターにまで名前を与える必要はありません。登場人物が増えれば、それだけ視聴者に「分かりにくく」なりますから、本来なら避けるべきです。
 にも関わらず、富野監督が彼らに名前を与えたのは、「ホワイトベースという艦がきちんと機能するためには絶対必要」だと認識していたからでしょう。
 初代ガンダムに限りません。たとえば『Zガンダム』では、カラバに補給物資を融通してくれるルオ商会のステファニー・ルオとか、ヤザンの部下でラムサスとダンケルとか、普通なら名前与えてクローズアップしないだろうという人物にも顔と名前が与えられています。


 そして、一度配置された後、彼らキャラクターが岡田氏の言うように後々「活きて」くるというのも、多分富野監督は「当然」と答えるんじゃないかと思います。何故なら、一度名前を与えられた以上、彼らそれぞれが状況の中で独自に、それぞれなりの最善を期して動くからです。



 こうしてみた時、富野作品において「組織」というものがシナリオ上に占める位置というのはかなり大きいのだな、と思ってみたり。
 ある意味、キャラクターよりも先に「組織ありき」な部分すらあるように思います。
 たとえば、普通の物語では、まず主人公のキャラを立て、それから味方の組織や敵の組織が作品の中にフレームインしてくる、といのが常道だと思います。つまり、「この主人公はこうした組織に対してどういう風に動くのか」と、主人公のキャラが主で、周辺状況である組織は従であるという形。
 ところが富野作品の場合はそうではありません。物語開始時点で、既に組織体がバリバリ活動しており、主人公はそこに遅れて参加していきます。目の前の部隊が何のために動いているのかすら、最初期の主人公には分かりません。つまり、組織の動きが主で、主人公は従の立場におかれるわけですね。
 実は、『ガンダム』がアニメ史上で一番画期的だったのは、この点だったりするかも知れません。


 そういう意味では。「クロスボーン・バンガード」という組織の成り立ちを、駆け足ながらも一から追って見せてくれるこの『機動戦士ガンダムF91』という小説作品は、富野監督の作風を探る上でもけっこう興味深い部分を多く秘めていると思います。
 引き続き、下巻も読みます。