宮崎アニメはなぜヒットするのか?


囚人022の避難所 『宮崎アニメは、なぜ当たる』 読書感想文(?) 続き
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 ともかく「難解」で「エンターテインメントとは言い難い作品」である『もののけ姫』(1997)以後の宮崎アニメが、商業的な成功をおさめ続ける秘密こそが知りたいところだったんですけど


 確かに、不思議と言えば不思議なんですよね。
もののけ姫』以降の宮崎作品には、どうしても不穏さや不気味さ、得体のしれない不定形の異形が幅を利かせてたり、一見してそんな「家族で安心して見られるハートフルストーリー」の枠に必ずしも収まってるわけじゃない。
天空の城ラピュタ』や『となりのトトロ』が大ヒットするならわかるけど。
 にも関わらず、とんでもない興行収入を叩き出し続けてるわけで。一体それは何故なのか、という話が出ていたわけですね。
 さて、私はこう見えて、学生時代まで宮崎駿の熱狂的ファンでありました。
 身近なところから出たこの話題、やはり素通りする気にもなれず。ちょっと考えてみた。


 といっても。
 これは明快な答えがただ一つだけ出てくるような、そんな問いでない事も確かだと思います。スタジオジブリというブランドが、そして宮崎駿というアニメ監督が国民的アニメの作り手として成り立ち続けている、その原因はいくつもあるだろうと思います。


 そこで。とりあえず思いつくまま箇条書きにしてみる。



   ☆「家族向けアニメ」として
 意外に重要なのは、ジブリの新作公開に合わせて、その一週間ぐらい前に金曜ロードショーで昔のジブリ作品を放送したりする事なのかなとも思います。
 つまり、最近の宮崎作品は「エンタメの枠内に収まってない」んだけれども、事前に『トトロ』とかを放映しておくことで、そういう「ハートフル」な作品のイメージと関連づけて、特に家族づれとかにあらかじめそういうイメージを刷り込んでおくと言いますか。
 多分、小さい子を連れて劇場に行った親御さんの中には、ハウルやポニョに含まれる不穏な、「エンターテインメントとは言い難い」部分を気付かずスルーした人たちも大勢いると思います。
 多分、『となりのトトロ』を作った宮崎監督の作品だから、という思い込みのせいで、そういう効果が生まれてるのでは。


 そういう意味では、「ジブリ」という名前、ブランド自体が、そういう効果を挙げてるのでしょうね。誰もがネットで作品論や作品感想を読んだり書いたり意見交換したりしてるわけじゃないのだし。
 ポニョなんかは、トトロと同じように、単なるハートフル家族向けアニメと思いこもうとすれば、出来ないことはないくらいの作品ではありますし。
 ハウルは微妙だけど(笑)。


 また、作風もこうした方向を後押ししています。
 確かに『もののけ姫』以降の宮崎作品は、とても単純なハートフルアニメではない。気色悪いドロドロの粘体生物が暴れまわったり、悪夢のような異形がのし歩いたりしている。けれども一方で、あからさまに視聴者に拒否反応を起こさせるような過激なこともしていない。
 血が出たりというような、あからさまな猟奇・グロテスクな描写もなく、また性的な、あからさまなエロティックな描写はほぼ完全に存在せず。
 受け手が普通、苦手として忌避する可能性のある要素がびっくりするくらい無いんですよね。グロが苦手な人も、エロを子供に見せたくない親も、とにかく宮崎作品なら安心して見ることができる。
 まぁ、『もののけ姫』において、珍しく「暴力シーン」が導入され、またそれが広告などでもわりと強調されたりしたんですが(アシタカの弓矢で首や腕が飛ばされたり、という辺りですね)。でも、宮崎の感性は結局それらを、どぎついグロという程に過激なものにはできなかったし、むしろ今までが抑制され過ぎてたので、かえって程よいスパイス程度に受け取られた、という感触があります。大体思い返してみると、ああいう話にしてはびっくりするくらい出血シーンが少ない。


 ともかく、世界名作劇場出身の宮崎監督、結局どれほどエンタメの枠から外れても、何故か「家族向けハートフルアニメ」と強弁できない事はない位置に立ち続けてるんですよね(笑)。それが、家族づれの観客の信用にもなっていると思う。



   ☆国民的アニメとして
 なぜ国民的アニメになり得たかという問いに、「国民的アニメだから」と答えたら同語反復なんですが、しかし事実そういう状況になっていると思う。
 今や、ほとんどどの世代の誰でも、宮崎駿の名前くらいは知っているわけです。うちの祖父母だって知ってる。
 そして、年上でも年下でも、宮崎アニメの話ならわりと安心してできる。かなりの確率で相手も知ってますし。つまり話題としての汎用性がかなり高い。同世代だけではなく、他の世代と話す場合にも使える。
 まあ、こういう場合、富める者はますます富むわけですよ。単に作品を鑑賞するだけが目的じゃなく、後でそれを友人同士とか、職場の休憩時間とか、ネットのメッセンジャーでの話のタネにもする。そういう場合には、他の人も見てる作品を見た方が話のネタとして使いやすい。
 また、話し相手が見てる作品なら、話を合わせるために自分も見る、とかね。そういうバイアスはかかりますので、有名作品ほど余計見られる。富める者はますます富む。


 ついでに言えば、そうして話題にして盛り上がる場合、もうグゥの音も出ないくらいの完璧な、隙のない作品より、ちょっと欠陥があったり、訳わからない内容だったりした方がかえって盛り上がったりもします。「あれは良かったね」だけしか感想が出てこなかったら、話はそれで終わりになっちゃいますからね。それよりはツッコミ所があって、お互い話し相手とそこにツッコミ入れたり、という方が会話は盛り上がったりするものです。
 そういう意味では、『もののけ姫』以降の、エンタメに収まらない部分の歪さが、かえって話のタネとしても上手く機能する形になってるのかも。



   ☆テーマ性


ともかく、ジブリ作品にはテーマがある、という前提は既に確立しているフシが見られるなぁと


 上記囚人022さんの記事のコメント欄にて、バルタザールさんがこのように述べておられますが。
 これも宮崎駿作品のヒットと関連があると思われます。


 ジブリ作品にテーマ性がある、という事が特に広く世間に確信されるようになったのは、私見では『もののけ姫』公開前後の事です。もちろんそれ以前にも、メディアへの監督自身の露出はありましたし、テーマ的な事をしゃべってもいました。しかし、とにかく『もののけ姫』での状況は一つのエポックだったと言えると思います。


 私事ながら私が一番熱心な宮崎駿ファンだったのがこの『もののけ姫』公開前後の頃でして、この時期、宮崎監督が出ていたインタビュー記事などは大体追いかけていましたが、その数は実に膨大な量にのぼります。
 実際、新聞に二面見開きの巨大広告として、宮崎監督に『もののけ姫』制作の際の意図やテーマをインタビューとして載せたりしてましたし、方々の雑誌でも同様の記事が掲載されていました。
 また、ニュースステーションだったかな、そういったニュース番組にも登場し、やはりエコロジー関連の内容を盛んに語っていました。
 重要なのは、それが深夜のニュース番組だった事です。つまり、ここでターゲットにされてるのは家族づれの親だけではなく、大人、会社勤めの成人(男性)だという事。
 そしてまた、この『もののけ姫』公開後だったと記憶していますが、『ユリイカ』で「総特集・宮崎駿」が組まれ、サンを大々的に表紙に飾った雑誌が全国の書店の、文芸批評雑誌の棚に並びました。ユリイカは詩の批評を普段は行っている文芸雑誌で、アニメ関連を特集で組んだのは、これ以前にはあまり例がないんじゃないかな(今はもう西尾維新特集とか荒木飛呂彦特集とかやってて、見る影もありませんが/苦笑)。


 文化人・宮崎駿
 こうしたイメージが広く知れ渡り、また批評の場で触れられるようにもなれば、当然そうした層の人々にも宮崎作品が見られる事になります。
 実際、宮崎は文化人としてもそれなりに通用するポテンシャルを持っていました。『もののけ姫』でも、世界観の基軸を網野善彦(中心と周縁理論を元に中世史で多くの著作を残した、有名な日本史学者)の著作を参考にして構想したと語っています。また、司馬遼太郎、堀田善衞を向こうに回して鼎談したりもしていますし(朝日文庫『時代の風音』)、あれでけっこう、文化人的にアプローチしてもそこそこ通用する人なのです。
 まあこの辺は、私より詳しい人がたくさんいそうですが。
 ともあれ、こうした状況から、批評関連の人たちもまた、宮崎映画の観客たりうる事になります。


 さらに言えば、先の『ユリイカ 総特集宮崎駿の世界』において、『エヴァンゲリオン劇場版』と『もののけ姫』とを比較した論考が載っていた事も、意外に重要かも知れません。
魔女の宅急便』の段階では、まだそうした他のアニメと比較して、という動きはそれほど顕著ではなかったでしょう。『紅の豚』でも。『魔女』は女の子を励ます映画ですし、『紅の豚』もモラトリアム的な内容の話ですし。
 しかし、『もののけ姫』において、宮崎は「アニメ作品を通して現実を模索する」流れに参入してきました。折しも世間はエヴァンゲリオンの分析に奔走していたわけで――つまり私や、囚人022さんのような(笑)、「アニメを通して世の中を考えよう」という人たちにとっても、宮崎作品は必須科目になってきたわけです。


 実際、『スカイ・クロラ』を見に行ってブログに感想を書く人たちが、『カンフーパンダ』も見に行って感想書いてるかというと、あんまりそういう事はないわけです。一方で、『カンフーパンダ』や『ポケモン』なんかを見に行く家族づれが、『スカイ・クロラ』も見に行くかというと、あんまり見に行かないですよね。
 宮崎作品は家族づれも動員するし、アニメ批評をやる人たちも動員する。若いカップルも動員してるでしょう。
 そして、邦画での興行収入でこれだけトップを取り続ければ、つまり日本映画全体においても一番の成功例。となると、映画批評をしてる人達も、これは無視できません。
 ともかく、いろんなジャンルで発言してる人達が、宮崎作品を「無視できない作品」と見なさざるを得ず、結局見に行く。そういう構図も『もののけ姫』以降、けっこう固まって出来ちゃってる。
そして、インターネットが普及して以降、この「いろんなジャンルで発言している人たち」はプロに限らなくなりました。読者数十人程度のブログの管理人でも、自分の発言に説得力を持たせようとする結果、宮崎作品は結局見に行ったりする。


 というように、テーマ性という性格付けによって、単にエンタテインメントを欲してる以外の人達にも、宮崎作品を見に行くというバイアスがかかってきてる、というのが現状だと思います。
 まぁもっとも、個人的には『ポニョ』において、宮崎はかなりそうした文化人的な作品づくりから後退してしまってる感触はありましたが。なので、公式HPでの、メッセージ性があるんだよという惹句を前提にポニョを見た人は、かなりの高確率で首をひねりながら映画館を出て行ったっぽいですし、その結果ブログで疑問点や不満をまき散らす事にもなっているように感じますが。



 ……とまあ、大体、宮崎映画が当たる理由として考え得るのはこの辺りですねぇ。
 基本的には世間で話されてる事をまとめたくらいの記事になってしまいましたが。要するに、「人を選ぶ」ような内容が極力排され、視聴を促すバイアスが多方面にあり、見た者は何かしらを「語る」ことができる。賛否はあれど、ね。
 そして多分、この「宮崎映画はなぜヒットするのか」問題をさらに詳細に考えたいなら、『もののけ姫』公開前後の動きを重点的に探るのが一番手っ取り早いと思います。この時期こそ、宮崎作品がヒットする「形」が出来上がった時期だと思うからです。


 ……というのが、元宮崎駿の熱狂的フリークだった私のとりあえずのアンサーでありました。
 どんなもんでしょう?



ユリイカ1997年8月臨時増刊号 総特集=宮崎駿の世界

ユリイカ1997年8月臨時増刊号 総特集=宮崎駿の世界