機動戦士ガンダムUC 虹の彼方に上・下





 ようやく終了、いや長かった。一応、何だかんだできちっと終わって見せた、といったところでしょうか。



 相変わらずやたら描写が細かいので、シーンとしてはほんのちょっと進んだだけなのに、ふと指を挟んだページを見るといつの間にか本の半ば過ぎまで読んでたりしてビビる(笑)。



 で、最後は大艦隊相手に突貫、その後インダストリアル7周辺で決着、といった流れ。
 主人公機が最後の出撃でフルアーマー化して、バリエーションを増やして後々の商品展開とかゲームでの後半パワーアップなどに対応したりするのは、まあこの業界ではよくある事(ぇ


 読んでいて盛り上がったのは、vsアンジェロのローゼン・ズール戦。サイコフレームでシールドを間接操作して逆転するシーンは非常に良かったです。あそこは感動しました。富野作品と並べても遜色ない、ユニコーンならではのオリジナルなアクションで。やっぱり具体的なアクションとして良いものが出ると一気にテンションが上がりますね。
 ……まぁ、そこからいきなりアンジェロの過去とか延々見せられて冷や水ぶっかけられたんですが(ぉ
 良いじゃんかよぅ、アクションはとりあえずアクションとして気持ちいいところを最後まで見せてくれよぅ。ダークな話はその後にしろよぅ、とか思ったり。



 そして、vsリディ戦と、その結果マリーダがお馴染みの成り行きで身代わりに散ってしまうのでした。
 結局、最後までマリーダには思い入れがあまり生じなかった私でありました。
 この最期にしても、正直今さらな感じがなくもない。富野ガンダムについて言えば、F91以降こういう身代わり死の情景ってほとんどなかったわけですし、∀ガンダムを経た今となっては、この「ララァの子供たち」的なシーンを繰り返す意味もあまりないような気がする(手前味噌ですが、そう感じたから、かつて私なりにガンダム的なものを全部盛り込みながら書いた0092にも、こういうシーンだけは入れなかったのでした)。
 まして、逆襲のシャアまでのこういったシーンにしても、「(互いに分かり合えるはずの)ニュータイプ同士がその場に居合わせたにも関わらず、生じてしまった悲劇」、つまりディスコミュニケーションの結果としてあったので、マリーダのように(ついでに言えばガンダムSEED終盤のフラガさんのように)単に感動的なシーンとして織り込まれると、やっぱりなんか逆に醒めてしまう部分もあったりして。
 まぁ、富野監督を意識しすぎる感想、なんでしょうけれども。しかし、ニュータイプをここまで前面に押し出した宇宙世紀ものだと、どうしても、ねぇ?(笑)



 そしてついに、「ラプラスの箱」の真相が暴かれました。
 正直、そこに至るまでの私の本音としては、「ここまで原稿用紙数千枚に渡って引っ張り回してくれただけのモンを見せてくれるんだろうな、アアン?」という感じではありましたが(笑)。読んでみると、なるほど確かにこれだけ勿体ぶっただけの事はある、なかなか練られたお話ではありました。
 まぁ、正直すでに存在している宇宙世紀の「ニュータイプ」から逆算して出てきた発想ではあるので、憲章の最後の文面についてはちょっと不自然な気もしなくもなかったけど。けどまぁ、それなりに辻褄の合う代物ではあったのかなと思います。すでにガッチガチに出来上がってる宇宙世紀設定の合間に滑り込ませたモノとしては、なかなか良く考えられています。



 ただ、設定としてはよく出来ていても、物語展開、ドラマとしてはどうか。
 たとえば、『ラプラスの箱』の真相がそういうもので、『カフカスの森』に居合わせたブライト・ノアがそれを知ったなら、彼がその事に何もコメントしないのはちょっと期待はずれなんですよね。アムロ・レイカミーユ・ビダンジュドー・アーシタを見てきたブライト艦長だったら、もっと突っ込んだセリフが出てきた方が私にとっては自然なんですけども……。


「あなたがたは、宇宙に適応した人々というのをスペースノイドに対する政治の意味でしか捉えておられないが、連邦のパイロットにも、適応の可能性を垣間見せた者はいたのです。彼らガンダムタイプのパイロットたちは、連邦軍の危機を救う事もたびたびありました。しかしでは、連邦政府連邦軍は彼らに何をしてやる事ができましたか!?
 あのバナージという少年も、その可能性の片鱗を見せています。そしてダカールのテロから連邦議会を身を呈して守った少年でもあります。その彼らにコロニーレーザーを向けて、あなた方は何をしようと仰るか! これが連邦政府の、大人の示す答えだというのですか!」


 ……私の知るブライト艦長ならこれくらいは言うよ(ぇ
 もちろん、こんな事言ったからって状況は変わらないでしょうけど、だからこそ逆に、啖呵切ってほしかったなぁ。プルクローンが出ていたりして、劇場版ではなくTV版Zガンダム→ZZを経過して来た歴史上のブライトなら、なおさら言わずにはいられないと思うのですが……。
 何かその辺、既存のキャラを使っているのに、痒いところに手が届かない感がところどころにあります。



 閑話休題
 メガラニカのまさかの変形・巨大戦艦化はなかなかウケました(笑)。明らかにやりすぎ感漂ってるんですけど、設定を意識して妙に小ぢんまりまとまってしまうよりは、あれくらいやらかしてくれた方が面白いw



 フル・フロンタルとの最終決戦にて。
 なんだろうなぁ、富野監督は基本的に、ハリウッド映画でやるような事は意地でもやらない、という人で、だからファーストガンダムでのアムロとシャアのフェンシング対決にしても、「こんなシーン、ハリウッド映画でよくあるある」みたいなノリはできるだけ回避しようとしてるんじゃないかと思うのです。
 それに比べると、資材の分断機械かなんかの上で取っ組み合いをするバナージとフロンタルという絵は、いかにもハリウッド映画でよくありそうな情景で、やっぱり何か物足りない感じ。
 もちろん、福井氏という人が、日本のエンタメシーンに、ある種ぬけぬけとハリウッド的なエンタテインメントを持ち込んだ事でヒットした人だというのも分かるんですけどね。


 で、口絵を見ると、結局フロンタルは「ラストシューティング」状態で葬られるわけなのでした。
 3巻の感想で、割と辛辣な口調で「これじゃF90でARチップとかCAチップとか言ってたのと変わらないじゃないか」と書きましたが、まぁやっぱり最後もそこからあまり出られてない感じ。ていうか、3巻「赤い彗星」でああいう登場の仕方をしたら、そりゃあこういう結末になるしかないんで。
 バナージがフロンタルに「お前はシャアじゃない」というのも、F90のデフが「これはA・Rチップ(アムロの行動パターンを組み込んだシステム)の力じゃない、俺の力だ!」と言ったのと(そのくせラストシューティングポーズで敵を撃破したのと)ほとんど変わらないんで、「アムロとシャア」という構図が紛いものであると否定する事でかろうじてデフなりバナージなりのオリジナリティ部分を担保しているに過ぎない。
 しかし、「アムロとシャア」の構図をこういう形で使い回すのは、やっぱり個人的にはあまり感心できなくて。ファースト世代の人たちの思い入れは分からなくもないけれど、結局これでは過去の遺産を食いつぶしているだけに過ぎなくないのか? と思ってしまう。
 これから先、宇宙世紀ガンダムものの作品は「シャアのフェイク」を何人生み出すつもりなのか?



 で、ラスト。
 コロニーレーザーを受け止めきるというとんでもない事をやらかしてくれたわけですが、しかし考えてみれば、特にサイコフレームとか使ってないキュベレイハマーン様が、ZZのハイメガ砲を根性で耐えきって見せたりもしてるんで、まぁそこまであり得ない話ではない(笑)。
 ただ、宇宙世紀ニュータイプものにおける、そういう一種の奇跡は「根性出したら出来ちゃった」類のものなので、こうやって「やろうと思ってやる」という形だとちょっと理に落ち過ぎてしまう感じがしました。
 何というか、ニュータイプ論がZガンダムあたりでいつの間にかサイキックウォーズになってしまってたのを、今までなら「ま、まぁ火事場の何とやらって奴で……」くらいで誤魔化せたのに、なんか理論として積極的に確立しようとしてるような感じ。え、良いの? みたいなw


 そして、そもそも福井氏のニュータイプ認識に違和感を感じるわけなのですが。
 最後、バナージ個人の意識がなくなって、「神に近い存在になりました」的な事が書いてあるんですけど……え、あれ? ニュータイプ論ってそういう話だっけ???
 なんか、「全体の中の個」になったバナージ、みたいな事も書かれてるんですけど……。ニュータイプってそういうモンだっけ?
 ていうか、それはむしろ「人類補完計画」じゃないのか(笑)。


 ニュータイプって、全体の意識とつながって、とかいう話じゃないですよね? もともとは「誤解なく分かり合える人々」なわけで。「誤解なく」が焦点になってる事から逆算で類推できるように、各人の個性が消えて全体に同一化したりという話ではありません。だって皆まったく同じだったら、最初から誤解なんて生じるわけないもの。
 それぞれにそれぞれの事情はあるけど、そこを互いの洞察によって感知して、争いをすることなく調和していける、というのが冨野監督が言ってるニュータイプなんじゃないかと私は理解していたので。なんか最後のシーン辺りはずっと「ポカーン」としながら読んでました。


 なんだろうなぁ。まぁ、TV版Zのラストのハイパー化は非常にインパクトが大きいので、そこから何となく膨らませていくとそういう感じになってしまうのかなぁという気もしましたが。何か釈然としません。

 (前略)叡智がもたらす可能性は、反自然的であるがゆえに自然を補完する。いつか、自らの存在意義を見出せたなら、この世界に真実の“光”を灯すのも不可能なことではない。母なる自然の対照物、そして庇護者ともなる“父”として。それは肉のしがらみに縛られていても……いや、肉の温もりを知る者のみが到達できる境地だ。


 つまり、福井ガンダム的にはニュータイプとは自然を補完する“父”なのですって。
 これでは福井版『人間モーセ一神教』です……いや、逆か。
 とにかく福井晴敏はこの『ガンダムUC』の中で、一貫して父性の擁護に躍起になっているので、この部分は正にその集大成というか行きつく果てという感じなのですが。
 そういう意味では、同じ福井氏が書いた小説版『∀ガンダム』が原作を大幅に逸脱して、わりと凄惨な結末を迎えたように……福井氏は富野由悠季が“女性性”に可能性を見出そうとした部分については、基本的にあまり共感していないのだなぁ、と思います。


 まぁそれ自体は、人それぞれの信念ですから別に良いんですけどね。
 ひどく個人的な話ですが、私の父親は高度経済成長期→バブル期を超ウハウハで過ごした世代で、私は結局今に至るまで、父親から“祈り”を引き継ぐとか英知を引き継ぐとかいうような事をまったく経験していない。いや本当、太平楽なもんです。
 そんな私にとっては、この作品のバナージに共感するような下地は最初から無かった。マリーダに共感する事も。


 ついでに言えば、オードリー・バーンことミネバ・ザビさんにもまったく魅力を感じないまま読み終えてしまいました。
 “普段はお姫様として毅然としてるけど、僕にだけは弱い部分を見せてくれるんですよ“ってところでしょうが、個人的には別に……という感じ。
ガンダムW』見た時に、私は国家元首として理屈を振り回す「リリーナ・ピースクラフト」は全然好きになれなくて、けれど飛行機のタラップに肘をのせてヒイロに挑むような微笑を向ける女の子「リリーナ・ドーリアン」にはすごく魅力を感じたのでした。
 ∀のディアナ様はお姫様だけど、野戦病院を手伝って洗濯に挑んだり、猟銃ぶっ放したりするから好きですよ。
 ユニコーンのミネバからは、そういう魅力は感じないんだなぁ。



 なんかそんな感じで、ことごとく福井氏と趣味が合わなかった私でありました。
 趣味だけでなく、ガンダムに対する視線、その他わりとクリティカルな部分が色々と合わなかったために、結局イマイチ乗れなかったというのが正直な感想です。
 正直、作品としての完成度も高いとは思わない。一本調子な文章を練りなおすだけでも、かなり印象は変わるハズ。


 まぁしかし、合わなかった部分はしょうがないとして、個々のシーンで好きなところも結構ありましたから、その辺を中心に、私的ガンダム空間に加えてやろうと思いました。
 ともあれ、これだけの長編を書きあげた福井氏に、お疲れさまでしたとは申し上げたい気分でありました。