∀ガンダムの主兵装は核爆弾?


 先日、ゲームセンターで『ガンダムvsガンダム』というゲームが稼動を始めました。このゲームにはターンエーガンダムも参戦。最近、露出が多くて、ファンとしてはとても嬉しいのですが。


 この前にゲーム内に登場した事例として、『A.C.E.3』や『ガンダム無双』にも∀ガンダムは参加していますが、いずれのゲームでも、∀の最後の切り札といいますか、一番強い攻撃は、「核爆弾を投げつける」です。


 さて。
 本編をご覧になった方ならご存知でしょうが、『∀ガンダム』作中において、核爆弾は「忌避すべきもの」として描かれています。∀ガンダムパイロット、ロラン・セアックはその威力を恐れて、ミリシャ、ムーンレィスの両陣営に使用されないよう、危険を承知で核爆弾を預かり、宇宙にて、せめて「人の英知が作り上げた物なら、人を救って見せろ」と願いながら、月の都へ落下する隕石にこの核爆弾を使用します。


 ところが、ゲーム中においては、そのロランと∀ガンダムが、敵に対して――人間に向けて平気で核爆弾をポイポイ投げつけているわけです。


 ミクシィターンエーガンダムコミュにて、たまたまこの件を話題に出して「いくらゲームとはいえ、ターンエーに核を投げて欲しくなかった」とコメントしていた人がいたので、普段はあまりコミュでは発言しない私も、軽く同意の書き込みをしてみたりしました。
 それに対してのレスが、こんな感じでした。


 >使うか使わないかはプレイヤー次第ですよ^^


 >もっと割り切りましょうよ(笑)


 >月光蝶と核(手投げミサイル)はいまや∀を表す立派なシンボルとなってるんだから、それらが技に組み込まれても何ら不思議ではないと思います。
逆に使えなければ使えないでユーザーから不満が出るでしょうし。

 率直に言って。
「ああ、時代は変わったんだなぁ」って、なんかものすごく年寄りになった気分を味わってしまいました。


 読者の方に先にお願いしておきますね。上記コメントを読んで、「近頃の若い連中は」とすぐさま否定的にとらえるのは、待って下さい。こうしたコメントが出るのは、いわば時代的に必然だと私は思います。


 私の世代だと――というより、私個人について言えば、やはり核爆弾というのは第一に「使ってはいけない兵器」というイメージがあります。私は修学旅行が長崎でしたし、学校の図書室に行けば、原爆の被害を描いた絵本なんかも置いてあって、小学校時代には怖いもの見たさに恐る恐るページをめくったものです。
 はがれた皮膚を指先からぶらさげて幽鬼のような姿で歩く人々や、眼球が飛び出たままさ迷う人々など、当時の私にはやはりショッキングでしたし。
 ですから、「原爆」「核兵器」と聞くと、まず何より生理的嫌悪感が先立ちます。


 また、母方の祖父母は終戦満州にいて、ロシア兵に追いかけられながらやっとこ日本まで帰ってきた話なんかよく聞いていましたし、その親戚に、シベリアに抑留されてて、凍傷で片足を失って義足であるいていたおじさんもいました。
 いわば、まだそういう生々しい部分を、肌で、感覚で感じる事ができる世代だったのかなという気がします。


 けど、私より若い世代にとって、そういうのはどんどん減ってるわけですよ。
 それにぶっちゃけて言えば、戦争体験者の戦争体験って、あんまり聞きたいものじゃない――少なくとも好き好んで聞こうと思うような話じゃない、ってのも本音としてはあって。


 正直、今、原爆や核兵器といわれて、その被害というのが即座に感覚で「分かる」人って、私より若い世代ではかなり少なくなっていると思う。それは致し方ないですよね、もう半世紀以上過ぎてしまって、どんなに体験者の方々が残そうとしても、少しずつ風化していくものですし。


 そして、その辺りが実感として持てない世代にとって、原爆・核兵器と、たとえばドラゴンボールの「元気玉」とか、あるいはスーパーロボット大戦グランゾンの「縮退砲」(私はニコニコで見ただけだけど)とか、そういうのとの間に特に違いなんか感じられないし、違いを探す必要も特に持たないと思う。


 実際、そうした世代的な下地を元に、『ガンダムSEED』『SEEDデスティニー』では、バカスカ核を撃つようになったわけです。


∀ガンダム』において、富野監督はこうした「核兵器の実感」をどうにか作中に込めようと苦心していたように思います。
 第28話「託されたもの」にて、ロランとソシエがMSで、被爆者のマネをして敵を追い払うシーンがあります。正直、お世辞にも上手くいっているシーンじゃないんですが……けれど、こんな不自然なシーンを入れてでも、このアニメを見ている若い世代に、富野監督がどうにかして伝えたかった。そんな風に見えます。
 けど――結局、アニメで、それもエンタメのロボットアニメでそこまで表現するのって、至難の業であり。富野監督をもってしてすら、結局成功していないんですよね。爆弾そのものの破壊力だけじゃなく、その後の放射能も危険だとか、そこまで伝えるには至らなかった。
 できた事といえば、レギュラーキャラだったギャバン・グーニーの死という喪失感によって、核の威力を視聴者に印象づけたくらい。


 後日、とあるインタビューで、富野監督は核兵器について「核兵器は非常に不幸な兵器。戦勝のためのものではなくて、一種の自殺兵器です」とコメントしています。
 しかし、これも伝わらなかった。だからこそ、ゲームにおいて∀ガンダムは、平然と敵に対して核爆弾を投擲しているんですから。


 さらに後日。富野監督は『リーンの翼』最終話にて、現代の若者、ロウリと金本の二人が「東京に核を使おうとする」シーンを描きました。
 この点について私は以前、「∀ガンダムであれだけ核の問題を繊細に扱ったのに、直後のガンダムSEEDでの核兵器への認識・扱いがあまりにも酷く、それへの絶望感が作品に出ているのではないか」的な事を感想としてこのブログに書いたわけですが。
http://d.hatena.ne.jp/zsphere/20061111/1163201895
 この記事ね。


 結局この『リーンの翼』は、そうした核兵器について、その危険性を実感できない世代に対して「そんなことじゃ、本当に自分たちの手で核を使うような羽目になるかも知れないよ」と言い、そしてそうした若者世代に対して、戦中派のサコミズ王≒富野監督が、そうした感覚を「分かるんだよ!」って言い募る作品、という風に見えるわけなんですが。
 でも、これも多分失敗してると思うんですよね。視聴直後の感想にも書きましたが、あの程度の描写の断片で、戦中派の体感、肌で感じた戦争の感覚が伝わるわけがない。


 現在の若い世代が、核兵器の怖さを肌で感じられないこと。それゆえに、ただ単に強い武器として、将来核兵器を自らの手で放ってしまう可能性があること。これは、さすが富野監督らしい洞察だと思います。
 けど、それに対して「核兵器の感覚」を作中で伝える事には、実は失敗し続けているんですよね。
 今日も、全国のゲームセンターで、∀ガンダムは相手に向けて核爆弾を投げつけています。


 ではどうしたら良いんでしょうか?
 私が個人的に思うのには……多分もう、当時の戦争の感覚、核兵器の感覚、そうした「肌で感じる感覚」を若い新しい世代に伝えようとしない方が良いでしょう。体験談を話すにしても、その他のメディアで訴えるにしても、体感そのものを伝達するのにはそろそろ限界が来ているように感じます。
 ですから、飽くまで事務的に、単なる情報として、核兵器を使用することで「放射能が振りまかれ、その後周辺地域が危険な汚染された状況になること」「従って仮に核兵器を使用しても、デメリットがメリットを大きく上回る事」などを淡々と伝えていくしかないんじゃないかと思います。


 私は、ガンダムの「vsシリーズ」は非常に好きです。が、そのゲーム中で、簡単に核爆弾を投擲できる事は良い事だとは思っていません。


 以上、とりあえず現時点での、私の考えの備忘録として記しておきます。