小説『機動戦士ガンダムF91』下巻、および同映画



 下巻を読了。
 結局シーブックガンダムに乗り始めるのは下巻のかなり終盤。出撃は実質一回だけという感じで、映画とはかなり違うんですね。
 そういう意味では、これは本当にクロスボーンバンガードを描くための話だったんだなぁという印象が強い感じです。
 ていうかね、本当に作者の富野監督が、地の文で徹底的にクロスボーン側を贔屓にしてるのが分かって、それが面白くて仕方ないというか(笑)。
 結局鉄仮面ことカロッゾ・ロナが倒されるべき「ガンダムの相手」として出てくるんですが、それ以外については、本当にこの時点では「クロスボーンバンガードの方に理がある」ものとして描かれてるように思えます。
 これは実は映画版も同じで、コスモ・バビロニアとクロスボーンバンガードの思想部分を担うマイッツァー・ロナは、物語の後半ではうやむやに消えてしまう。
 ですから、本当はこの先、F91の続編のテレビシリーズというので、マイッツァーが語っていた「ノーブリス・オブリージュ」を突き詰めていく段階があったんでしょうね。結果として、大人の都合でそこがすっぽり抜けてしまったんで、どうしても食い足りない感があります(さすがに、『クロスボーンガンダム』での貴族主義についての言説では、マイッツァーの思想に対するアンサーとしては余りにも弱くてちょっと納得できないし)。


 そんなわけで、上巻がいろんな意味で面白かったのに比べると、下巻は若干の消化不良感がやはり拭えない感じはありました。
 まあでも、富野監督の身も蓋もない民主主義批判が炸裂してる部分は、やっぱり読んでてなんとも面白いわけなんですがw

「……この狭いテリトリーで、人類が種として永久に存続するためには、すでにエゴの時代は、終っているのです。そのエゴを抜けだした体制を獲得しなければ、われわれは、スペース・コロニーさえも放棄しなければならなくなります。そのときは、地球は、すでにありません。そんな人類の悲惨な未来を将来させないために、われわれは、理想に一歩でもちかづける高貴さをもって、新しい体制を構築しなければならないのです」


 以上、カロッゾの演説より。この危機感は、これが発表された1991年よりも、2008年の現在の方が伝わりやすいんじゃないかなと思ったりします。21世紀に入ってからこのかた、国外でも国内でも、あちら立てればこちらが立たずなギクシャクとしたことをさんざやって来たのを見てきた我々としては。
 映画版で、ザビーネが「感情を処理できん人類は、ゴミだと教えたはずだがな」って言うんですが、無論これはかつての恋人であるアンナマリーを切り捨てる冷酷な発言として劇中では言われているんですけれども……、現在の我々の状況を考える時、ある意味この言葉って賛成せざるを得ない部分があるよね、と私は思ってたりして。
 いやマジで、個々人の感情をどうこう言ってたらニッチもサッチもいかない問題だらけじゃないですか。日本の現在の借金の金額が、総額で約900兆円でしょ。増税っていうと即座に国民は反発しますし、政治家もそれで支持率が下がると困るからなかなか断行できないとかそれぞれやってるけど、そういう個々の感情をあっち立てこっち立てってレベルで調整して、どうにかなる金額なんですかねこれ、っていう気はするんですよね。
 環境問題とかもそうだし。北朝鮮拉致問題とかも、そりゃあ家族にとっては大問題なのは認めるし、日本と北朝鮮との二国間では重要な問題として取り組み続けて欲しいとは思うけど、六カ国協議でしつこく主張するのはKYじゃね? と思ったりする私。だってアメリカとかにとっては、ぶっちゃけて言えば関係ない話なんだしさ。そこは、どの国にとっても共通の問題である核とかをメインに据えるのは当然だよねーって、思ったり思わなかったり。
 なんか本当、ワイドショー見てると、素で「感情を処理できん人類は〜」とか言いたくなったりするんですが……。


 まあいいや。
 とかく、そういう意味ではF91で提示されてる問題意識って、実は今も色あせてないっていうか、今でも十分通用するものなんじゃないかと思います。
 まあ問題は、これに賛同するっていう事は我々の現在のあり方を否定する事で、それは自分の生活そのものを「ぶっ壊せ!」って言う事に等しいんで、現代人としては賛成しようがない、って事なんですけどね。そりゃあ、富野監督が隕石落としたくなるのも無理もないw


 そんな感じ。
 で、せっかくなんで、映画の『機動戦士ガンダムF91』も借りてきて久しぶりに見てみました。


 こちらはさすがに、娯楽映画ってことで、小説版よりはシーブックガンダムに乗るタイミングは早いわけですが。
 とりあえず、あの短い時間で、小説版にあった厚みを出来るだけ取り込むべく頑張ってたんだなぁというのが、何とも(笑)。
 けどやっぱり無理があるんで。たとえばセシリーの養父であるシオ・フェアチャイルドとか、小説の方ではそれなりに肯定的な部分も描かれてるんですが、映画では恐らく尺の関係でそこまで微妙なニュアンスが出せず、シオに関しては単に「義理の娘を売り渡したコスい男」という感じの描かれ方になってます。で、小説版では生き延びられたのに、映画版ではお亡くなりに。
 マイッツァーの立ち位置も中途半端で、結果として小説版では明確だった「民主主義に対するアンチとしてあえて貴族主義を立てる意味」という問題意識がかなり薄まってしまっており。
 目立つは鉄仮面ばかりなり(笑)。


 後半もものすごい詰め込みっぷりで、やっぱりこれは映画のカタルシスとしてはちょっと駆け足すぎる感じがしてしまいました。まあ、もうこれで3回目ぐらいの視聴なんで、そこは割り引くとしても。
 バグが稼動するシーンとかも、あんなに短かったかなぁ。最初にバグのシーンを見たとき(高校時代くらいかな?)は、本気で戦慄した覚えがあり。けっこう強烈な印象が残っているんですが、今見返してみると、このシーン自体は短いんですね。


 けど久しぶりに見たら、最後、シーブックが宇宙に放り出されたセシリーを探し出すシーンでちょっとだけ感動。ここだけは、全体の駆け足な勢いが嘘みたいに静まって、情感のある良いシーンになってました。


 まあ、要するに何が言いたいかっていうと。
 ビルギットさんは良いヤツだって事ですよ!(待て