脳のなかの幽霊


脳のなかの幽霊 (角川21世紀叢書)

脳のなかの幽霊 (角川21世紀叢書)


 大昔に買って、ずっと積ん読していた脳科学関係の書籍。刊行当初はけっこう売れてたみたい。


 著者は臨床の脳神経科医。様々な事情で脳に障害を負った患者たちの事例から、脳の仕組みを探っていくという内容。けれど、こうまとめると何か、一種の闘病ドキュメンタリーみたいな内容を想像する方もいるかも知れませんが、そういうのはあまりなく。出てくる患者たちは、確かに脳の部分的な損傷でいろいろな不都合を抱えてはいますが、皆すごく陽気だったりします。また、著者のラマチャンドラン氏もユーモアに富んだ人物で、重さを感じさせず終始ニコニコしながら読めるような内容。時に大笑いする羽目にもなったり。


 特にこの本の読みどころは、脳の各部位への損傷が思いもよらない症例を見せる、その不思議さもありますが、何よりそれに対して分析を加えるべく、著者が思いつく奇想天外な検証法、その柔軟な発想が面白いです。
 相手は生身の患者ですから、下手な実験はできないわけです。そこで、患者にリスクや負担が起こらない、それでいて「なぜその症状が生まれたのか」を検証するための実験を次々考え出す、それがもう、楽しくて。


 たとえば、脳に損傷を負った結果、計算のできなくなったビルという患者さんがいました。指を3本たてて「これは何本ですか」と聞けばわかるのですが、「3+7はいくつですか」などの足し算引き算になると、どんなに簡単なものでも出来ない。
 一体この患者さんの脳内でどういった事が起こっているのか。数という概念のどこまでが失われているのか。そこを突っ込んで考えるために、著者はちょっとしたジョークを話します。


「ある日一人の男が、ニューヨークの自然史博物館の恐竜展に行って、巨大な恐竜の骨格を見ました。どれくらい前のものか知りたくなり、隅に座っていた年配の館員のところに行ってたずねました。『ちょっとうかがいますが、あの恐竜の骨はどれくらい古いものなんですか?』
 館員は男の顔を見て『六〇〇〇万三年です』と答えました。
『六〇〇〇万三年ですって? 恐竜の骨の年代がそんなに正確にわかるなんて考えられない。どういう意味なんですか、その六〇〇〇万三年というのは?』
『それはですね、三年前に私がここに就職したときに、あの骨は六〇〇〇万年前のものだと教わったんですよ』」
 ビルは落ちのところで声をあげて笑った。思ったよりもはるかによく数字を理解しているのはあきらかだ。このジョークは、哲学者が「具体的なものと抽象的なものを置きちがえる誤謬」と呼んでいるものを含んでいるので、これを理解するには高度な理性が必要である。
(中略)ビルはこのジョークも、無限という概念も理解している。それなのに一七ひく三ができない。つまりこれは、人間が左側の角回(ビルが卒中を起こした脳部位)に、加減乗除のための数字中枢をもっているということを意味するのだろうか? 私はそうは思わない。しかしこの領域(角回)が、数字計算の作業に何らかのかたちで必要で、かつ短期記憶や言語やユーモアなどの他の能力には必要でないことはあきらかだ。


 長くなりましたが。
 確かにこういう形で明らかになる脳の仕組みというのも興味深いのですが、この症例を前にして、とっさにこんなジョークを思い出して言える著者もタダ者じゃないよな、と(笑)。
 他にも、いわゆるファントムリム(幻肢)、そしてファントムペイン幻肢痛)という、腕や足などを切断した後に、あたかも無いはずの腕の感覚が患者に残り、場合によっては激しく痛むようなケースについても、著者は検証からその原因を推定し、そして段ボール箱と鏡を使った奇想天外な即興のからくりで、その幻肢痛を治療してしまったりするのです。


 こういうのを読むと嬉しくなっちゃうんですよね。なんだろう、杓子定規な「科学」っていうだけじゃない、人の知恵の柔軟な部分が感じられて。こういうの好きなんですよ(笑)。



 そして、諸々の検証の結果、脳の機能について色々と意外な事実が分かってきます。
 特に著者が強調している事象のひとつは、我々が普段、連続し完結した一続きの存在と信じている「自己」のイメージが、思ったより曖昧なものだという事です。我々が目に見ているものも耳に聞いているものも、現実そのものではなくて、脳が辻褄合わせに編集を加えたものでしかないと。
 たとえば、目の前に段ボールか何かを立てて視界をさえぎり、その向こうに自分の手を置きます。そして段ボールの前に、手の形をしたおもちゃを置きます。その上で、協力者に、本当の手とおもちゃの手を、同じように、モールス信号のように不規則にトントンと叩いてもらいます。
 何が起こるか。
 叩かれている感触は本当の自分の手から送られてきますが、視界では叩かれているのはおもちゃの手です。この状況を続けていると、やがて――おもちゃの手から、叩かれている「感触」が来ているかのように感じ始めます。つまり、おもちゃの手が自分の一部であるかのように感じられるようになる、と。
 さらにこれは、別に手の形をしていなくても起こるのだそうで。なんとテーブルの表面でやっても、同じ錯覚が起こる、というのです。
 本当にこれで、自分の脳はテーブルを体の一部と感じているのか、実験するために著者は被験者の皮膚に電極をつけ、被験者がテーブルを自分の手と錯覚しだしたあたりでいきなりテーブルをハンマーで思い切り叩きました。と、被験者からは緊張状態を表す発汗がたしかに観測できた由。
 つまり、この程度の事で、脳は「自分の体」という認識を揺らがせてしまうと。
 ここまで語った上で、著者は憎らしくもこのように謎かけをするわけです。これが、テーブルではなく、たとえばブードゥーの呪いの人形だったらどうか?


 ……ここまで読んで、私、またシビれてしまったわけですよ(笑)。丑の刻参り、呪いのワラ人形というのが、脳の錯覚を利用すれば、さほど理不尽なものではなくなるかもしれない、というわけですね。人形に釘を刺すと、本当に人を害する事が出来るかもしれない、少なくともそういう回路は我々が考えているよりもあり得る話かも知れないというわけで。


 ともかくこんな感じで、次々とエキサイティングな発見をさせてくれる、非常に楽しい本でした。気まぐれでこの本を買った昔の自分をほめてやりたいです(笑)。
 とてもオススメ。