書楼弔堂破暁


書楼弔堂 破暁

書楼弔堂 破暁


 あらかじめ断っておきますと、私は中学時代に京極夏彦の影響をこれ以上ないくらい受け、妖怪だの民俗だの信仰だのに関心を持つようになったわけで、小説など書いても文体が京極夏彦のそれに勝手に似通ってしまう、という体たらくであり。
 つまり、この作家の大ファンであります。


 そんな京極先生の新刊が出て、久しぶりにデビュー作のシリーズに近いコンセプトの作品に見えたので、買ってみた次第なのです。
 こうした思い入れの強い作者さんの作品を見たり読んだりする場合、パターンとして二つの傾向があり得ます。好きな作家さんの作品だから、余分に良い作品に思える、というのと。
 好きな作家さんの作品だからこそ、期待するものが多く、かえって余分に作品に対して失望してしまう、というパターン。


 正直に言いますと、この作品については私の感想は、後者だったのでした。
 以下、かなり重大なネタバレ注意。






 おそらく私が、作者について必要以上に「手の内」を知っていた事が、この感想の理由の一端だろうとは思います。一時期、京極のインタビューなどは徹底的に集めていたので。


 何が不満だったかと言えば、この作品から私が「作者の新しい挑戦」をまったく感じられなかったことにあります。この作品に登場する人物たちは、皆、作者が好きな人物ばかりです。過去のインタビューなどで「好きな人物」といった話題で挙がっていた名前ばかりなのでした(勝海舟などもそうで、「もし幕末維新の時代に生まれていたら誰になりたかったか」といった質問に対して、強いて言うなら勝海舟、と答えています(『月刊カドカワ』1997年1月号))


 作中で展開される弔堂の主張や発言なども、私がインタビュー記事を集めていた十年ほど前とほとんど変わらない主旨であり。
 最終話でサプライズとして登場する人物が、京極のメインシリーズである妖怪シリーズの探偵役である中禅寺秋彦の祖父という事になるのですが、そこで中禅寺の血筋に対して弔堂が述べる話の内容も、あまり差別化がされていないというか、京極堂が話している内容とほぼ変わらない。
 結果として、京極堂のあの知性の原点部分が、弔堂からほぼ丸々移譲されたものであるかのように読めてしまうのでした。
 これは結果として、京極夏彦作品の世界観にあった多様性を委縮させるような効果しか持たないように思えます。


 そうでなくとも、「あの」泉鏡花が、作者のオリジナルキャラクターの説教のお蔭で「あの」泉鏡花になった、というプロットは、メアリー・スーとまでは言いませんが、私の個人的な創作姿勢の美学(?)から見てちょっといただけない感じがしました。
 作中で泉鏡花は、あえて自分の望む小説の境地から最も遠い題材を弔堂に所望します。しかしでは、京極夏彦自身はどうなのか。この作品中には、彼にとって既に分かりきった結論ばかりが書かれているのではないか。そんな気がしてしまったのでした。


 もちろん、それはそれで構わない、とも言えます。
 私がなんでこんなことをクダクダ書いているのかと言えば、「京極夏彦先生の本気はこんなものじゃない」と信じているから、なのでした。
 私は作家・京極夏彦の本気が見たいのです。氏が、持てる知識と実力のすべてを挙げて、それでようやく纏めきれるかどうかが際どくなるくらいの、そんなギリギリの作品が読みたい。
 本当にね、ダン・ブラウンが裸足で逃げ出すくらいの、ものすごい作品が書けるはずなんですよ、京極先生なら!(笑)


 ……というわけで、新年早々、文句ばかりの感想になってしまいましたが。
 京極先生が近年は電子書籍などについて頻繁に発言している関係もあって、書籍に関する考え方や姿勢についてだけは、素朴に感心しました。単に情報だけが欲しいなら、本は無料で貸し出しましょうという。本という「物体」を欲している者には売る、というのです。現状の出版界の現状を考えればかなりストイックな考え方ですが、しかし「本を売る」という事の本質を問う意味では、面白い姿勢の表明だと思った事でした。
 以上、そんなところで。