機動戦士ガンダムAGE 第45話「破壊者シド」
▼あらすじ
EXA-DBを守る無人MS、シドと交戦状態に入ったゼハートのガンダムレギルス。しかし圧倒的な火力に加え、「見えざる傘」によって神出鬼没な動きを繰り返す相手に苦戦を強いられる。そこに現れたのはアセムのダークハウンドだった。
奇しくも、また互いに協力する形になった二人は、アセムの機転もあってどうにかシドに打ち勝つことに成功。ゼハートはEXA-DBを手に入れようとするが、ビシディアンの砲撃がこれを阻止。EXA-DBが隠されていた小惑星は爆散してしまう。
しかし、完全に破壊されたかに見えたEXA-DBとシドは、密かに生き延びていたのだった。
▼見どころ
全編にわたって、シドとの戦いが描かれる第45話。主人公側はフリットもキオもこの接触を素通りし、駆けつけるのはアセムだけ……ゼハートと合わせ、完全に「アセム世代」のための回という趣きです。
当然、シドの話からしていかなければなりますまい。というわけで、早速本題から。
▽シドが意味するもの
まず、以前に書いたことの確認からしていきましょう。
AGEという作品において、ヴェイガンのMSは独特のカメラアイの形状をしており、過去のガンダム作品のMSデザインと離れたものになっています。
そんな中、宇宙世紀のMSを思い起こさせる、「モノアイ」を使用したマシンがAGEの中で2か所だけ登場します。一つが
フリット編に登場した、ザラムとエウバの機体。これらは、銀の杯条約以前の戦争の対立関係を引き継いだ二勢力が、旧戦争の機体で争っているという場面に登場したものでした。
そしてもう一つが、
今回登場した、シドです。
こちらも言わずもがな、銀の杯条約以前の戦争技術を蓄積したデータベース、EXA-DBから生み出された、旧戦争に由来するマシンです。
第6話の解説で書いたように、これら「銀の杯条約以前のMS」にのみ、モノアイという宇宙世紀ガンダム=過去のガンダム作品を思わせるデザインが採用されている事は、EXA-DBが「過去のガンダム作品に登場した戦争技術」の象徴であると暗に示すための意図を感じさせます。
ここまでも、EXA-DB由来の技術としてセリフの中に出て来た技術が過去ガンダム作品を思わせる、という話は第37話解説などで述べましたが、この回シドが使用してゼハートを苦戦させた
『ガンダムSEED』のミラージュコロイドが当然念頭に置かれています。
さて、ではそのシドはどのような存在かというと、その戦いを見ながらレイル・ライトが解説してくれています。
「EXA-DBを守護し、自己防衛機能まで備えたあの無人モビルスーツのコードネームだ。EXA-DBの力を利用して、生物のように成長を続けている……まさしく、モンスターだ」
このように説明されると、やはりとっさに思い浮かべるものがあると思います。
人型を大きく逸脱したシルエット、自己防衛と成長を続けるマシン、となると……
「自己進化」「自己再生」「自己増殖」の機能を持つとされるアルティメットガンダム、その成れの果てであるデビルガンダムが、連想されるところです。
実際、アセムがシドと遭遇した際の様子を描いた外伝コミック作品『追憶のシド』では、シドが自己を修復する様子も描かれており、「自己再生」のイメージがより強調されていたりします。
(あるいは、左右の大型バインダーから次々とビームを放つ姿は、『ガンダムX』のパトゥーリアのイメージもあるかも知れませんが、ここでは「自己再生」「自己増殖」といった要素の強さから、デビルガンダムとの類似と相違を中心に見ていきます)
とはいえ、シドはデビルガンダムのイメージをそのまま持ち込んだものではありません。これまで縷々見てきたように、AGEは歴代ガンダムから様々なモチーフを取り入れつつも、必ずその意味をストーリーに沿った形に読み替えてきました。
では、シドとデビルガンダムはどこが共通し、どこが違うのか。……この点をはっきりさせるためには、まず『Gガンダム』作中のデビルガンダムについて、その意味するところを整理しておく必要があります。
そもそも、デビルガンダムの作中での描かれ方は、あまりにも異様です。巨大ロボがドツキ合いの格闘大会をするという荒唐無稽な作品世界であるが故に、案外見過ごされがちですが、そのような作品世界の中ですら、ことさらに異様です。
何がって、
機械であるにも関わらず、人間に「感染」するとされているところです。
設定上は、ナノマシンの作用という説明になっていますが、それにしても「デビルガンダムがそのコアに、生体ユニットとして人間を組み入れる事が必要」という辺りは、それまでのガンダム作品のメカまわりの設定からはあまりにかけ離れています。
機械に過ぎないデビルガンダムの運用に、なぜ人間を取り込ませなければならないのか。このような異様な想像力がどこから現れたのか……と突き詰めていくと、同時期に放映された別番組の事が思い起こされてきます。
人間・生物と、機械・ロボットとの境界を極端に曖昧なものとして描いた作品。
『新世紀エヴァンゲリオン』です。
言わずと知れた90年代アニメ作品のエポックメイキングである本作は、機械と生物の境目が極めて曖昧に描かれていました。主人公が乗り込むロボットにあたるはずのエヴァは、敵である使徒を「食っ」たり、攻撃されると無暗に液体を噴きだしたり、あげくコクピット内で「シンクロ率」の上がり過ぎたパイロットがマシンと融合してしまったりします。
……まぁ、実際のところ筆者はエヴァの設定に関してはあまり詳しくないのですが、要するに主人公たちの乗り込むエヴァって半分以上メカではない、という辺りなのかなと把握しています。
いずれにせよ、「生体ユニットを入れないと運用できない」デビルガンダムと、エヴァの想像力は極めて近い、と言う事ができると思います。
実のところ、『エヴァ』と『Gガンダム』との関連性は他にもいろいろと見つける事ができます。
第11話番外編でちらりと書きましたが、基本的にガンダム作品のドラマ作りというのは、現在進行形で襲い掛かる状況にどう対処するかという話が中心で、「過去のトラウマ」にスポットが当たる事は極めて珍しい事でした。
そうして見ると、それまでのガンダムシリーズに比べて、『Gガンダム』の登場人物たちは異様に「トラウマ」を強調されるシーンが多い。主人公のドモン・カッシュは母親の死、父親の冷凍刑という重い過去を抱えていますし、また第31話では、シャッフル同盟の中でも一番陽気に描かれるアメリカ代表チボデー・クロケットが、
幼少時のピエロに関するトラウマに苦しめられます。
このように、登場人物がそれぞれに過去のトラウマを持ち、そのトラウマによって現在の行動が制約されるという設定は、『エヴァンゲリオン』が強調して描き、その後のアニメシーンに大きな影響を与えた部分です(ちなみに、エヴァ放映当時に発売された多くの関連書のひとつに、庵野監督の対談本『スキゾ・エヴァンゲリオン』『パラノ・エヴァンゲリオン』がありますが、この「スキゾ」「パラノ」はいずれも心理学用語からとられています)。
熱血な武闘派作品のイメージが強いですが、ドモン・カッシュはレイン・ミカムラがいなければ、基本的に人を寄せ付けたがらない「ネクラな主人公」でもあります。
また、エヴァが「アダム」「使徒」「死海文書」などなど、キリスト教系の用語や世界観を大々的に取り入れていた事も有名ですが、これも『Gガンダム』が「ゴッドガンダム」「デビルガンダム」など、ネーミングに安直なくらいに直接的に「神」「悪魔」といった言葉を使っている事と、符合しています。
そして重要な事ですが、『エヴァンゲリオン』の放送開始は1995年10月、『Gガンダム』の放送開始は1994年4月。つまり、『Gガンダム』の方が先行しているのです。
言ってみれば、エヴァンゲリオン的な作品が流行する空気、そういう時代性をいち早く先取りしていた側面が、『Gガンダム』には確実に存在していたのでした。
ロボットアニメ界隈では、エヴァ以降、その影響を露骨に受けた作品がいくつか作られました。主要人物のトラウマや過去に大きなウエイトがかかり、敵の正体が不明で、黙示録的な謎や世界の危機が設定に含まれる作品群です。筆者はロボットアニメをそんなに熱心に追っているわけではないのであまり詳しく書くとぼろが出そうなところなのですが……『ラーゼフォン』や『ビッグオー』あたりはこの系譜に並べても良さそうに思えます。
一方、ガンダム作品について見てみると、こうした「エヴァンゲリオンショック」から直接影響を受けたらしい作品は、エヴァ放映からしばらくの間、あまり見られません。大規模な最終戦争、あるいは災害後という世界観という意味で『ガンダムX』や『∀ガンダム』から影響を看取する事はできますが、エヴァが当時のサブカルチャーに与えた影響の大きさから見ると、はるかに少なく見えます。
思うに、ガンダムシリーズにおいては、『Gガンダム』が免疫の役割を果たしていたのではないか、という見方が可能なのではないでしょうか。
一見したところ、初代ガンダム以前の熱血スーパーロボットアニメに先祖がえりしたように見える『Gガンダム』ですが、当時の世相や空気、状況に極めて巧妙に合わせた作品作りが随所に見られるという意味で、実はかなり周到な内容だったと筆者は考えています。
少し回り道をしましたが、デビルガンダムにしても、エヴァを生み出したのと同じ文脈の想像力――サイバネティクス、ナノマシーン、クローン技術などの、生命についての概念を揺るがすような技術の発展――を受けて、あのように設定、描写されたと見る事ができますし、そこには時代の空気に対する敏感なアンテナがあったと見る事ができるはずです。
さて、以上を念頭に、シドについてです。
ここまで書いたデビルガンダムについての記述と比較して頂ければお分かりかと思いますが、シドにはこうした、デビルガンダム、DG細胞といった「機械と生命の境界を揺るがす」ような要素は見られません。シドは自律的な無人MSで、自己修復や自己増殖を行いますが、有機物である人間に浸食してくるようなものではないからです。
従って、シドについてはやはり「デビルガンダムなどのイメージをオマージュとして使いながら、劇中では別の意味を持った存在」であると見るのが良いと思われます。
では、シドは何を意味していたのか。
……これについては、恐らく唯一の正解は存在しないのではないかと思います。劇中においては「EXA-DBの守護者」「(ゼハート言うところの)人類の過ちの象徴」という意味しか持たされていませんし、仮にそれ以上の意味を探るとなれば、解釈する人それぞれに様々な見解が出ておかしくありません。
もちろん何の意味も無かったと見る事もできますが……それにしては、意味深な設定やキーワードがいかにも気になります。
筆者としては、この後に論じる内容とも絡めて、シドを軍事産業の暗喩、という風に読んでみても良いのかなと考えています。
過去の戦争データの蓄積から生まれており、自己増殖し、対立している両軍が求めており、時に戦いの遠因にもなる存在の守護者、という辺りから連想されるものの一つです。
アメリカをはじめ多くの国で、ちょうど自動車メーカーがニューモデルを互いに展示・アピールするモーターショーがあるように、兵器を作る軍事産業が広いイベントスペースに新型兵器を展示して見せる兵器展示会が行われている事が知られています。
軍事産業も資本主義経済の中の営利企業ですから、前年よりも今年、今年よりも来年と売り上げを増やして「成長」していかなければなりません。結果として、そうした企業にとってはより売り上げが上がるために軍事的な緊張状態や、戦争状態である事が好ましい、という事になります。
しかも軍事産業は大きな売り上げ(による国への納税)や、多数の雇用を生み出しており、国にとっても軍事産業が衰退すると国富や経済、財政に大きな影響を来たしますので、軍事作業から国への要望がわりと通りやすくなったりもするわけであり……。
たとえば(特にブッシュ政権の頃に)アメリカが戦争をやめられない理由の一つとして、こうした軍事産業を介した「戦争中毒」が原因の一つである、といった指摘があったりしたのでした。
ガンダム作品でいえば、宇宙世紀のアナハイム・エレクトロニクスが真っ先に思い浮かぶところでしょう。エゥーゴを主導して反ティターンズ運動に出資しつつ、ティターンズにも(マラサイなどの)MSを販売、2度のネオ・ジオン抗争では連邦軍の主力MSを引き受けつつネオ・ジオンにもMSを提供していました。
また近年の作品で言えば、『ガンダムSEED Destiny』の
軍需複合体ロゴス、といった設定が、上記のような問題をガンダム世界に取り込もうとした例として挙げられます。
「経済の観点から戦争を望むもの」として、デュランダルの長いセリフによって説明されたロゴスですが、その首魁の一人であるロード・ジブリールの役回りがムルタ・アズラエルと近いところもあり、また後半の展開が基本的にジブリールを単に追い回す展開に終始した結果として、構造としての軍需産業の話はどうも後半立ち消えになってしまった側面があります。
総じてSEEDには、問題意識として取り入れられたものの中には重要なものがいくつもあるのですが、いずれも未消化だったという印象はあります。
さて。
正直なところ、ならばAGEのシドにこうした暗喩を読み込むことが、「正しい」(製作者側が意図していた)かどうかはもちろん、作品の読み替えとして妥当かどうかについても、そんなに自信があるわけではありません。こじつけだ、と思われる方もいらっしゃるでしょうし、筆者もそこは否定しません。
それでも私がこの話を書いたのは、後述するアセム世代の話につなげるためです。
先の軍事産業と「戦争中毒」の話のポイントは、A国とB国の仲が悪いとか、利害が対立するとか、外交がこじれた、無法があったといった「個々の国同士の問題」とは別に、国を超えて戦争を駆動する仕組み、戦争を誘導するバイアスが生じているかも知れない、という点でした。
単にヴェイガンのためではなく、「人類の光となれ」と言われたゼハートは、敵国である連邦の戦力ではないシドを「人類の過ちの象徴」とみなし、これを自力で撃破する事にこだわります。少なくともこの瞬間、ゼハートは連邦、ヴェイガンといった枠を忘れ、人類全体を念頭に行動していました。
そしてそこに駆けつけたのが、アスノ家の中でフリットでもキオでもなく、アセムだったのです。
シドとガンダムレギルスの戦闘をキャッチしたディーヴァですが、どう対応しようか迷うナトーラに対して、フリットはすげなく言い放ちます。
「今はラ・グラミス攻略戦のため、ノートラムへの集結を優先すべきだ。些末(さまつ)なことに構っている暇などない!」
第35話の解説で触れたように、初期のガンダムシリーズ作品においては「目の前で起こった出来事にどう対処するか」が重要であって、「過去に起こった事の謎解き」というのは近年のガンダム作品でないと主題になりにくい要素でした。そのせいなのか、EXA-DBという巨大な謎・秘密に接触できるチャンスに、ファーストガンダム世代にああるフリットは見向きもしません。
そしてこのEXA-DBを巡るイベントには、キオも参加しません。『ガンダム00』『ガンダムUC』と、こうした「過去の秘密」がガンダムシリーズで強調されるのはゼロ年代以降が顕著なので、一見、キオがここに参戦しないのは不思議なようですが……私見では、上記2作品に見られる「過去の秘密」がキーになるというシナリオの特徴は、実は「遅れて来たエヴァンゲリオン・ショック」であって、ゼロ年代本来の性格と少しずれているような気がしています。
実際、『ガンダムSEED』で思わせぶりに描かれた「過去の謎」である宇宙クジラ=エヴィデンス01は、結局本編中で何の伏線回収もされていなかったわけでした。SEEDという物語にとって、結局そうした世界観全体に関わるSF的な謎は、重要ではなかったのです。
ラプラスの箱、イオリア計画といった「過去に仕組まれた遠大な謎」、そして神や天使といったキリスト教の諸要素、登場人物のトラウマ語り――これらはすべて、90年代を象徴する作品『新世紀エヴァンゲリオン』の特徴のリバイバルです。折しも、小説版『ガンダムUC』の連載開始、『ガンダム00』ファーストシーズン放映開始、そして『エヴァンゲリヲン新劇場版:序』の公開はすべて2007年。軌を一にしているのです。
恐らく、TV版エヴァの影響を受けた人々が、クリエイターとして企画を主導できるようになったタイミングが重なったのだろうと思います。
どうあれ、このような具合なのですから、EXA-DBの元へ馳せ参じるのはフリットでもキオでもない――アセムとゼハート、90年代を代表する世代でなければなりません。
さて、そのアセムですが、シドとは因縁がありました。
アセムの駆るAGE-2をあわや撃墜というところまで追い込み、結果アセム失踪の原因となったのが、シドとの戦闘だったのでした。
一応、外伝コミック『追憶のシド』によるならば、ここで宇宙海賊に属する少年ウィービックとの邂逅があり、またEXA-DBの管理者を名乗る少女レウナ、なども出てくるわけなのですが、例によって尺に余裕のないアニメ本編はその辺を全部割愛。そのせいでシドというマシンがどういう意味を持って本編に登場しているのか、余計分かりにくくなっている面もあります。
この考察記事は、極力アニメ本編内から得られる情報のみで進めていますので、上記外伝コミックについては深くは触れません。
むしろ重要なのは、ここでアセムとゼハートが、再び共闘する形になっている事です。
ゼハートは当初、
「邪魔をするな、アセム! これはわたし自身の戦いだ。イゼルカント様の後継者たる覚悟が問われているのだ!」
と言っていますが、見えざる傘によって捕捉することもままならないシドを前に、結果的に協力してこれを撃破する事になります。
かつて、アセム編最終局面で二人がダウネス破壊のため協力したのは、ヴェイガンにとっても、連邦にとっても大切な場所である地球を、ダウネス落下による甚大な被害から守るためでした。
そして今回のシド戦。ゼハートはEXA-DBをヴェイガンの戦力強化に使おうとしているという意味では、ヴェイガンのために行動しているとも言えます。しかしこの前後、
「イゼルカント様は、ただ人類の未来だけを思って、戦い続けてこられた……!」
「私は! 必ず人類を、エデンへと導いてみせるぅっ!!」
シドは自分自身が倒さねばならないと言うゼハートは、このように言ってもいます。
前回、イゼルカントが単にヴェイガンの地球侵略を目論んでいたのではなく、連邦ヴェイガン問わず新しい人類を生み出すために戦っていた事をゼハートに告げました。その意志を継ごうとしているゼハートも、少なくともこのシドとの戦いにあっては、「ヴェイガン」ではなく「人類」を導くという意志の試金石として戦っています。
また一方、宇宙海賊ビシディアンを率いるアセムもまた、(少なくとも建前上は)連邦の味方でもヴェイガンの味方でもなく、両者の力を均衡させるために行動する第三勢力です。
言わば、この二人が再び共闘することが出来たのは、互いに「ヴェイガンのため」でも「連邦のため」でもなく、「人類のため」に行動しようとしていた者同士だったから、でした。EXA-DBをどのように使うかという意図は違えど、それが人類全体を左右する存在であるという認識を、二人は共有しています。
ここに、80〜90年代ガンダムの問題意識が表れているわけです。
前回の記事で書いた通り、戦場のミリタリー的なリアリズムを一兵士の視点から描いた作品は、そうであるが故に戦争という巨大な営みの全体を問う事ができない、という欠点を持っていました。
『Zガンダム』以降の作品は、その点を超えてより長射程の問題意識を描くべく、時にあえて「リアル」である事を捨ててでも、テーマに踏み込んでいきました。戦争を主導する者と主人公を会話させ、あるいはヒロインの家族を戦争の主導者として描くなどして、「戦争の全体像」が主題として浮上して来たのです。
結果として、Z以降のガンダム作品のこうした側面は、ガンダムシリーズをエンタテインメント映像作品全般の中で、特異な位置に置いたという事が出来ます。
実写の有名な戦争映画、たとえば『私は貝になりたい』とか、あるいは毎年8月15日前後に放映される戦時中を舞台にした実写ドラマなどを思い返していただければ分かるかと思いますが――こうした作品の基本構造は、一兵卒や一人の庶民、つまり「一個人がひどい目にあった」事を描いて、それゆえに「戦争は良くない」という論法しか基本的に用いていません。
しかし、「じゃあ他国から攻め込まれたらどうするのか」といった単純な問いをはじめ、外交、資源、時代背景その他、戦争を問うために議論の俎上にあげるべき事は多いはずで、結局大半の「反戦映画」の類いは、前述の「ファーストガンダム世代の失敗」と同じ状況に陥っているようなものです。
一個人の視点と戦争を主導する指導者の視点、国家全体の経営や外交といった巨視的な視点など、戦争のミクロとマクロをそれなりに多極的に描こうとしたエンタメ映像作品というのは、日本ではせいぜいNHKの大河ドラマと、ガンダム(をはじめとする一部のアニメ作品)くらいだと言う事も出来てしまうのでした。
そして、ガンダムがそうしたマクロな戦争という視点を描いていく中で、さらに視野が広がっていく事にもなりました。敵と味方という枠を超えて、さらに巨視的に人類全体が直面する問題や状況もまた、Z以降の作品には取り入れられていきます。
特に宇宙世紀作品で分かりやすいのは、たとえばこうした問題でしょう。
「お前が見せてくれたように人類全てがニュータイプになれるものか! その前に人類は地球を食いつくすよ!」
「持てる能力を、調和と協調に使えば、地球だって救えたのに!」
「世界は、人間のエゴ全部は飲み込めやしない!」
「人間の知恵はそんなもんだって乗り越えられる!」
これらのセリフから分かるのは、ジュドーとハマーン、アムロとシャアなど、互いに異なる陣営に属した敵同士であり、抱える信念も違うにも関わらず、「地球環境がもたなくなりつつある」というエコロジー問題についての懸念は共有している、という事です。
『ガンダムZZ』にせよ『逆襲のシャア』にせよ、そのストーリーは、地球環境問題への危機感を共有した上で、その解決法をめぐる過激派と穏健派の争い、でもあるのです。
つまり、言ってみればZ以降のガンダムシリーズにおいては、敵も味方も、所属する陣営の勝ち負けを超えて「人類全体の問題」を考え行動する、という意識がはるかに強く描かれていたのでした。これは、『ガンダムF91』や『Vガンダム』にも継承されていく特徴です。
そして、90年代。富野監督以外の手になるガンダム作品に至って、「人類全体の問題」というのが必ずしもエコロジーばかりではなくなります。端的に言えば、戦争と平和の問題がよりクローズアップされていきました。自分が所属する陣営がいかに勝つか、ではなく、人類が最終的に戦争を克服するにはどうしたらよいか、という問題です。
『Gガンダム』においては、各国が代表選手を出場させて、武術大会の勝敗によって代理戦争を行うという世界観の元に物語が展開しました。もちろん、「ガンダムでプロレスをやれ」という富野監督の注文から敷衍された設定ではありますが、結果として既存の戦争イメージそのものを変えてみるという思考実験になっています。
そして『ガンダムW』。ヒロインであるリリーナ・ピースクラフトが中盤に至って、かつて滅びた国サンクキングダムの「完全平和主義」を復興、紆余曲折の末、OVA『エンドレスワルツ』の最後にて、
「アフターコロニー197年、人々のもとに平和は戻った。そして、その後の歴史の中で、ガンダムを含むMSという兵器の存在は、二度とその姿を現す事はなかった」
本当に世界が「完全平和」な状態になり、MSがまったく使用されない時代が到来してしまうのでした。
第34話解説の後半で書いた、主人公の属するチームが「第三勢力」化していくというのも、こうした傾向と歩調を合わせています。そこで触れたように、ヒイロ・ユィたちガンダムパイロットたちは当初はコロニーから派遣された戦力だったのですが、やがてコロニー側がホワイトファングと名乗って地球と争い始めるにおよび、そのどちらにも味方せずに第三勢力化、結果としてリリーナの唱える完全平和の成立に一役買う事になります。
また、最終局面において、ホワイトファングの指揮を執るミリアルド・ピースクラフトも、また地球圏側の勢力をまとめて代表の座に就いたトレーズ・クシュリナーダも、いずれもゆくゆくは世界が完全平和へ至る事を了解している事が匂わされており、だからこそトレーズは自分と最も近いストイックな戦士である五飛の手にかかって討ち死にする事を選んだのでした。
とはいえ。そりゃあ、争っている双方の代表が内心で完全平和に理解を示しているなら、最終的に世の中が平和になったという結末にもなろうものですが、現実に戦争を指揮する指導者がそのようなビジョンを共有する事があり得るのかどうか。元よりファーストガンダム的なリアリズムからは距離をとっているとはいえ、こうした未来像が現実に対する批評としてどれほど効果的だったのかは、疑問が残ります。
こうした、90年代ガンダムの可能性と限界を極めて批評的に描き出した作品として、『ガンダム00』のファーストシーズンは特筆に値する内容を持っています。おそらくですが、この作品のファーストシーズンは90年代ガンダムの目指したものをかなり圧縮、先鋭化して描き出しており、一方セカンドシーズンでは同じガンダムマイスターたちがゼロ年代ガンダム的な問題意識・行動原理で活躍するようになっている、という構造になっていると読むことができます。
つまり、『ガンダム00』のファーストシーズンからセカンドシーズンへの移行は、そのまま90年代ガンダムの挫折のありかを浮かび上がらせている、極めて批評的な内容になっているのではないか、と筆者は見ています。
ファーストシーズン時点でのソレスタルビーイングの目的は、あらゆる戦争、紛争の根絶です。そしてそのために、ユニオン、AEU、人革連のほか、それらに反抗する小規模武装勢力などあらゆる軍事行動に対して攻撃を仕掛けます。
彼らが行っているのは、諸氏百家の墨家のような(あるいは宇宙海賊ビシディアンのような)強者を叩いて弱者に加勢するといった性格のものでもありません。第4話「対外折衝」にて、
相対的に弱小国であろうと先に戦闘行動をとった方を「戦争幇助国」と断定して攻撃しています。
要するにその意図は、「どんな陣営、どんな理由であっても戦争行動する奴は許さん、武力介入の対象にする」という、全方位を敵に回す行動なのでした。つまり彼らは、特定の「戦争の原因になっている国や人物」ではなく、あらゆる場所で起こる戦争一般を、つまり人類が起こす戦争すべてをターゲットに行動している事になります。
シーズンの後半、ソレスタルビーイングのこの時点での意図が明確にされます。太陽炉という強大なエネルギー源により、破格の性能を誇るガンダムを用いて世界中の大国・小国の軍事行動を叩くことで、自らがそれら国家の「共通の敵」となり、今まで分裂していた国家同士を一つにまとめ上げる、という構想だったのでした。
そして事実、ファーストシーズンのソレスタルビーイングがきっかけとなって、ユニオン、AEU、人革連などが「地球連邦」にまとまる事になるのですから、(驚くべきことに)彼らの目論見は見事成功したのです。
しかし、その結果どうなったかといえば……連邦軍内部に「アロウズ」という専制的な軍組織が現れ、連邦の意向や利権に反する者たちを非人道的な方法で潰して回る、という世界が現出。その横暴を目にした5年後の刹那は、
「変わってない……あの頃から、何も……!」
と述懐します。
大国のパワーゲーム、貧困国の噴き上がり、テロリズムなど様々な「戦争を生む原理」に戦いを挑み、その目論見を成功させたにも関わらず、結局世界は武力を捨てはしなかった……という結末を、この作品はファーストシーズンに対するアンサーとして用意して見せたという事になります。
これはおそらく、80〜90年代ガンダムの限界をかなり正確に掴んで表現したシナリオだったのだろうと思えます。
「完全平和主義」といった極端な用語を始め、この時期のガンダムは所属する陣営の枠を超えて、広く人類全体の問題にまで考えを及ぼす視野を手に入れたのですが、一方で世界全体を俎上にあげたために、極めて抽象的に、非常に大雑把な枠組みでの話に終始せざるを得ないという短所にもつながってしまった、という事が出来ます。
しかし、人類や世界についての大きな理念を描き出したとしても、国も組織も結局は、不合理で予測不能な個人個人の集まりです。どんな原理原則にも例外は発生するものですし、どだい一定規模の人間が集まってまったくいさかいや争いが起きないなどという事はあり得ません。ソレスタルビーイングは三つの大国が覇権を争う世界を克服する事はできましたが、それは結局、別な覇権を持った者を生み出して同じことを繰り返させただけ、だったと描いた事になります。
言ってみれば、この『ガンダム00』ファーストシーズン終盤からの展開は、世界が本当に平和になってしまった『ガンダムW』に対する批判でもあったのでした。そしてこの批判に応ずるかのように、
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こうした批判は、形を変えて『∀ガンダム』にも匂わされています。同作品の後半になって、頻繁に「闘争本能」という言葉がキーワードとして登場するのです。
「地球帰還作戦が始まってから、心穏やかであったムーンレィスに闘争本能が芽生えて、古代の人類に戻ってしまったのだ」
つまり、∀ガンダム作中で起こったミリシャとムーンレィスの小競り合い、武力衝突の発生の一端は、巨視的な国家間の利害や、抽象的な哲学や世界の原理などではなく、人間個々人の本能に帰せられているのです。ディアナ・ソレルのように和平を望んでいる者が主導者であっても、それだけで戦いを失くせるわけではない、というのが『∀ガンダム』という作品の基本路線です。
マクロな問題を追っているだけでは、戦争という人類史上の大問題は解決できない、という事なのでした。
AGEにおいて、確かにアセムとゼハートは所属する陣営をこえて、シドに対して共闘を挑むことができました。前節で述べたようにシドを「肥大化する軍事産業」といった国家の枠を超えた「戦争を誘発する原理」の象徴と見る事が許されるならば、アセムたちが人類レベルの問題意識を共有し、そのために己の立場を超えて協力する事ができたのだ、と見る事ができます。
しかし、アセムの機転と、ゼハートによるガンダムレギルスの覚醒によってシドを一時は撃破する事に成功するものの、
シドも、EXA-DBも、結局生き延びてしまうのでした。
まるで『ガンダム00』ファーストシーズンのガンダムマイスターたちが、「世界の歪み」を根絶する事に失敗してしまったかのように、です。
このような80〜90年代ガンダムの反省から、ゼロ年代ガンダムが展開されます。それがどのようなものだったのか……という話は、おそらく47話の解説で詳しく述べる事になると思います。キオ・アスノが、やはりその希望と限界を再演してくれるはずです。
また、80〜90年代ガンダムからゼロ年代ガンダムへと移る中で何が変わったのか、どのように問題意識が推移していったのかについては、『ガンダム00』のファーストシーズンからセカンドシーズンへの移り変わりを観察する事で見えてくることと思います。
これについても、47話解説にて詳しく述べる事にします。
というわけで、今回はここまで。
この回は、シドとゼハート、アセムの戦闘のみに見所が集中している、AGE全体でも珍しい回なので解説内容もシンプルになりました。とはいえ、今回あまり強調出来なかった意外な見どころもありまして……「見えざる傘」によって出没を繰り返すシドに対して、アセムは咄嗟にワイヤーアンカーによる追尾を行いますが。
「ゼハート、相手はこのワイヤーの先だ! そこに攻撃を集中させろ!」
「ワイヤーだと? ……そうか!」
この直後、ゼハートの攻撃によりシドは撃破されるのですが。問題はこの、「ワイヤーだと?」と訝ってから、アセムの意図に気づくまでのゼハートの「間」です。
ここで、ガンダムレギルスを乗りこなしXラウンダー能力を最大限に引き出しつつあるゼハートですら、一瞬アセムの意図を察するのに時間がかかったという事。それは、アセムの機転がゼハートのXラウンダー能力による推察を上回ったという事です。
つまりこの「間」こそ、非XラウンダーでありながらXラウンダー以上の能力を発揮する「スーパーパイロット」の面目躍如の瞬間なのでした。
こういった、つぶさに見ている人なら気づくテクニカルな見どころが多いのがAGEです。おそらくこの解説記事でも見逃しているところは沢山あるのだろうと思います。
まぁ、気づいた限りの事は書き綴って行こうと思います。
さて、次回はいよいよ、最終決戦が開始されます。この長い物語もついにクライマックスへ進んでいく――という事で、当記事も今一度、気合を入れ直して臨みたいと思います。
引き続き、よろしければお付き合いください。
※この記事は、MAZ@BLOGさんの「機動戦士ガンダムAGE台詞集」を使用しています。