オデュッセイア(上・下)


ホメロス オデュッセイア〈上〉 (岩波文庫)

ホメロス オデュッセイア〈上〉 (岩波文庫)

ホメロス オデュッセイア〈下〉 (岩波文庫)

ホメロス オデュッセイア〈下〉 (岩波文庫)


 『イリアス』に続いて読んでいた『オデュッセイア』も、一か月弱ほどで無事上下巻を読了。
 思い起こせば中学生時代、宮崎駿が『風の谷のナウシカ』の主人公ナウシカのモデルだと語っていた王女ナウシカアが登場すると知り、図書室で『オデュッセイア』を手に取って読もうか読むまいか迷い始めてから幾星霜、まさかそのまま読まずにこんなに月日が経つとは思っておりませんでしたが(笑)、ついにそれも読了したのだなぁと、感慨もひとしおであります。


 で、個人的に妖怪だの化け物だのの話が長年好きでいた身としては、関心は『イリアス』よりも断然こちらにあったわけです。キュクロプス、セイレーンなど、そっち方面をほっつき歩いていれば必ず目にする魅惑的なモンスターが登場する話、というわけです。
 ところが読んでみて意外だったのは、そういうオデュッセウスの漂流譚は、物語全体の3〜4割くらいしかないのですね。飽くまでも『オデュッセイア』の話の骨子は、オデュッセウスの帰国と、彼の財産を食いつぶす求婚者たちの誅殺にあるのでした。こういう物語全体の力点やニュアンスは実際読んでみないと分からないもので、やっぱ原典に当たらないとダメだなぁ、と再認識した次第。
 原典に当たらないと、と言えば、あまりに有名な「トロイの木馬」のエピソードも、アキレウスが脛の弱点を射られて討ち死にする様子も、『イリアス』そして『オデュッセイア』ではほとんど語られないのですね。木馬についてはオデュッセイアの方にちょっとだけ話が出てきましたが、その立案、経緯、結果を通しで語る記述が無くて。当然あるとばかり思ってたから、かなりびっくりしたのでした。怖い怖い。
 ま、こうして自分の不勉強を一つ一つ、地道に潰していくしかないわけで。



 物語全体として非常に驚いたのは、物語の時系列が意図的に前後されてる事でした。『オデュッセイア』の物語は、オデュッセウスの漂泊が始まってから7年以上経った時点で始まり、物語開始時点より前のエピソードは、彼が宴の席で語る体験談として物語の中盤辺りから展開されるわけです。
 これってかなりテクニカルな構成なわけで。物語の途中に回想シーンを、それも一本線の物語の時系列を入れ替えて語るために使うという手法が、紀元前8世紀頃に成立してたというんですから、これはもう恐れ入るしかないよなぁ、と。日本の物語で、こんな試みが最初に登場したのは果たして何時頃だったやら。
 個人的な印象としては、このような時系列の入れ替えは、『イリアス』と「リアリティーレベル」の歩調を合わせるための工夫であるように見えました。『イリアス』は、オリュンポスの神々がやりたい放題に介入してくるという意味で今日の視点から見れば荒唐無稽ですが、その点を除けばかなりリアリティのある戦記物語です。少なくとも、一つ目の巨人が人を丸かじりしたり、風を閉じ込めた袋で船がぶっ飛んだり、といったようなメチャクチャな出来事は、『イリアス』にはあまりない。
 そして、『オデュッセイア』でも、オデュッセウスが自分の口で語った漂泊譚を除けば、リアリズムの面で『イリアス』とそんなに隔たっていないように読めたのでした。『オデュッセイア』のハチャメチャなエピソードは、ほぼすべてオデュッセウスが宴の席で語った回想部分に集められています。
 つまり、キュクロプスやキルケやスキュラと出会った話は、オデュッセウスが宴を盛り上げるためのリップサービスであった可能性が留保されている、という事なのだと思います。もちろん、実際にあの作中では、そのような体験をした事が各所に記述されてはいますけれども、『イリアス』とリアリティーの面であまり隔たらないように、配慮された結果こういうプロットになった、という見方をしたくなるわけです。


 さらに言えば、このようなプロットをとる事によって、否応なくオデュッセウスの旅という物語は自己言及的な構成をとらざるを得なくなっているわけで。こういうところにも、その後のヨーロッパ文学や哲学の胚芽があったのかも知れないな、などと感慨深く読んでいた次第でした。



 物語の内容についてですが、正直、『イリアス』の緊密な、次々に事態が押し寄せる展開に比べると、ところどころ冗長さを感じる部分もありました。特に、オデュッセウスが帰国してから、段取りを踏んで少しずつ求婚者たちを討つ算段を整えていく部分は、少し進みが遅い。
 とはいえ、やっぱり盛り上がる場面の盛り上がり方、また趣向の凝らし方、サービス精神は凄くて、そこはやっぱりさすが聴衆を沸かす事に長けた吟遊詩人の手管だなぁと、感心しきりでありました。焦らして焦らして、一気にカタルシス持ってきて、最高にハッピーエンドを盛り上げて、っていうサービス精神あふれる語り、やっぱり楽しいわけですよ。
 ラストで、まさかのオデュッセウスの父ラエルテスまでもが戦いに参加して、三世代の共闘まで見せてくれるんだもの(笑)。親父つえぇ!って言いながら読んでました。
 あと、アテネオデュッセウスのコンビも良いんですよ、これが。『イリアス』の、わりと人間に対して超然と接する神々を散々見た後だったので、「智謀ゼウスにも劣らぬ」と形容されるオデュッセウスの用心深さに、さしものオリュンポスの女神も呆れ気味になってて、『イリアス』では決して見せないくらい胸襟を開いてオデュッセウスに協力していくという……その会話のやり取りが、なんか良いなぁと。


 ペネロペイア、テレマコスと、オデュッセウス一家の物語としての後半、いわばミクロな物語と、壮大な航海譚・海洋冒険譚としての前半と、両方を詰め込んだストーリーという事で、個人的にはその双方を楽しめた感じでした。やっぱ大したもんだ。
 セイレーンのシーンとかは、もっと詳述されてるかと思ってたので少し拍子抜けでしたが(笑)。


 あ、あと、冥界下りの場面も色々と面白かったのですが。恐らくこの叙事詩が歌われていた時点で広く知られていたであろう、帰国したアガメムノンを襲った悲劇とか、あとヘラクレスなどギリシャ神話の有名人とか、名前をいちいち出して「冥界に降りたときに、こんな有名人も、あんな有名人も見かけちゃったよ〜」って語りになってるあたりは、微笑ましいというかなんというかw これもやっぱり、その叙事詩を聞く聴衆へのサービスなんでしょうけれども。
 同時に、ギリシャ神話やその周辺のエピソードというのが、いわばどんどん二次創作的に膨らんでいったパブリックドメインだったのだな、という事も強く意識しました。そうであればこそ、ギリシャ神話の体系というのがこれだけ広がり、また豊かになったのだろうな、とも。
 そういう意味で、古代ギリシャの世界観というのは、次々と芋づる式に楽しんでいくのが良いように思えたのでした。


 ……であればこそ、次にまた関連する本を読んだりしたのですけれども。