ドラキュラの遺言
- 作者: フリードリヒキットラー,Friedrich Kittler,原克,前田良三,副島博彦,大宮勘一郎,神尾達之
- 出版社/メーカー: 産業図書
- 発売日: 1998/05/01
- メディア: 単行本
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5月3日読了。
書店の店頭でたまたま見つけて、気が向いて買ってみたら思い切り専門外の領域の本だったという、ある意味いつものパターン。
自慢じゃないですがフーコーもデリダもカントもラカンも未読ですよ、ええもう。関心はあるけど、こっち方面はやるなら本腰入れてやらないと身にならない事は身に染みているので、そして私の現在の関心はあいにく別方向なので。哲学思想系の本は基本的に避けていたのですが、今回はうっかり。
おまけに、この本の1998年、15年以上前であり、タイトルとは裏腹にメディア論、それもデジタルメディアを論じた内容。ご存知の通りコンピュータをはじめとするデジタルメディアは日進月歩の分野で、15年前の論考を読むにはかなり色々と勘案する必要に迫られます。
門外漢が読むには、なかなか荷が重いと言わねばなりますまい。
案の定、多分内容の5パーセントも理解できていないものと思われます。
しかしそれでも、それなりに得る物のあるのが読書のありがたいところ。15年前のこの時期、まだウインドウズ95の発売の記憶が新しいこの時期に出た本だから持ち得た問題意識があったのかな、という空気に触れる事は出来た気がします。
「ソフトウェア」と高級プログラミング言語によって、「ハードウェア」が隠蔽されているのではないか、というのは面白い問題の立て方なのかなと思いました。当たり前の人にとっては当たり前なのでしょうが、そういう問題提起を思想の言葉で語るというのは、既にウインドウズが最初から入ったPCが当たり前な世代の人間には意外に難しいのかな、という気もしたり。
……まぁ、門外漢の戯言ではありますが。
けど、最近の若手の批評家さんとかが、ツイッターをはじめとしたネットメディアの仕組みなんかを論じていく時に、この本が論じているような原理の部分にまで立ち返って、たとえばフーリエ変換の数式の意味するところを思想の言葉で追跡できるような、そういう理系のセンスも本当は必要なのかな、とぼんやり思ったりもします。
個人的な感覚としては、なんかもう、「理系」と「文系」を明確に分けるセンスというのが私の中で成立しなくなっているというか。そんな垣根は悠々とまたぎ越して行けるような人に、最近魅力を感じるのであります。
……なんかもう、全然本の中身について語っていませんが(笑)。後半に収録された論考が、なんだかんだで、分からないなりにいろいろと刺激になったようです。
最初に収録されてる、ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』をメディア史の観点から読む、というのも面白かったので、とりあえず『ドラキュラ』も読んでみようかと思って慌てて買ったのでした(まだ読んでなかったのかよ
そんな感じで。